今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

幽霊の日

2005-07-26 | 記念日
今日(7月26日)は、「幽霊の日」。
1825(文政8)年7月26日、江戸の中村座で四世鶴屋南北作『東海道四谷怪談』が初演されたことから。 東海道四谷怪談は、夫民谷伊右衛門に毒殺された四谷左門の娘お岩の復讐話で、江戸の町に実際に起こった事件をモデルにしているんだとか。幽霊と言えば、お岩が出てくるほど、四谷怪談のお岩は有名であるが、東京都新宿区四谷左門町には、田宮(於岩)稲荷神社【都指定旧跡】がある。新宿区観光課HPを見ると、この神社について以下のような説明がされていた。
「江戸時代後期の歌舞伎脚本作者、四代目鶴屋南北が書いた『東海道四谷怪談』で有名な民谷伊右衛門の妻・お岩をまつったお岩稲荷神社の旧地で、東京都指定旧跡です。物語は、四谷左門町の浪人・伊右衛門が不義をしたうえにお岩を毒殺し、その亡霊に報復されるという話。文政8年(1825年)、江戸浅草の中村座で上演し、大当たりした。これは物語であり、幕府の御家人・田宮又左衛門の娘お岩は、養子伊左衛門の貞淑な妻で、代々家に伝わる稲荷を信仰していた。このお岩にあやかろうと、お岩稲荷の信仰が盛んになったといわれている。明治5年頃、『田宮稲荷』と改められ、現在は飛地境内社としてお岩稲荷の旧地を守っている。」とあった。
中央区新川にある「田宮(於岩)稲荷神社」がそれで、明治12年(1879)の四谷左門町の火災で類焼したのを機会に、中央区新川にあった田宮家の屋敷内に移転したものだそうである。だから、今、新旧、2つの「於岩稲荷神社」がある。
この鶴屋南北の「東海道四谷怪談」と「仮名手本忠臣蔵」は表裏一体で同時に進む歌舞伎のお話として作られており、東海道四谷怪談」の初演では、二日間に幾つかの幕を「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演されていたそうだ。それは、「東海道四谷怪談」は、忠臣蔵の裏のもので、「お岩」を殺す夫・民谷伊右衛門は、塩谷家(赤穂藩)の元家臣でありながら、義士として討ち入りにも加わらない不義士(忠臣の裏面)として作られているからである。だから、歌舞伎や映画での見せ場となっている「戸板返し」の場面も、お岩との不義の濡れ衣を着せられた小平というものを戸板の裏表にして縛って川に流すと、後で化けて出て、戸板が裏表に返えり、小平とお岩が夫々に伊右衛門に怨みを言うように設定されているんだそうだ。この初演以降は「東海道四谷怪談」と「仮名手本忠臣蔵」は別々の話として成立するようになった。
この数百年に渡って日本人の心を惹きつけてきた『忠臣蔵』、そして数百年に渡って人々を震え上がらせ続ける『四谷怪談』。この「表」と「裏」の物語が深作監督の見事な演出でスクリーンに甦えり、1994年度日本アカデミー賞作品賞を始めあらゆる賞を独占した。
夏の暑い時期、今宵は怖い怖い四谷怪談のビデオでも借りてきて涼しくなりますか?
(画像は、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』DVD松竹ホームビデオ)
参考:
東海道四谷怪談
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/yotuyakaidan.htm
松岡正剛の千夜千冊『東海道四谷怪談』鶴屋南北
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0949.html
作品研究
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhinex.htm
「四谷怪談」の東と西:「東海道四谷怪談」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin46.htm

大阪天神祭り・「船渡御の日」。

2005-07-25 | 行事
今日(7月25日)は、大阪天神祭りのクライマックス・「船渡御の日」。
大阪はよく「水の都」などとも言われている。
その水の都・大阪の、夏の風物詩ともなっているのが道頓堀川の「船乗り込み」(ふなのりこみ)。「船乗り込み」とは、歌舞伎興行の際、役者が船に乗って御披露目しながら、お客様のご来場を呼びかけていく、江戸時代からの儀式で、歌舞伎独特の伝統行事。いったん廃れていたが、1979(昭和54)年に55年ぶりに復活したもの。今年は、6月29日に、中村勘九郎改め、十八代中村勘三郎さんが大阪での襲名披露公演を前に船からファンにあいさつをした。又、この「船乗り込み」とともに有名なのが、日本三大祭の一つ「天神祭」。この祭りも船渡御を初め水とは深く関わっている。「天神祭」は天満宮御鎮座の2年後、951(天暦5)年、に社頭の浜からか神鉾を流し、流れ着いた浜に斎場を儲け「みそぎ」をおこなった。その折、神領民や崇敬者が船を仕立て奉迎したのが天神祭りの始まりとされ、1000年余の伝統を誇る日本屈指の祭典で、毎年7月24、25日の2日間にわたり行われる。
昨日の宵宮(24日)では、催太鼓、獅子舞、鉾流神事など、歴史ある催しが数多く行われ、今日、本宮(25日)の見どころとなる陸渡御では、催太鼓を先頭に、豪華な衣装をまとった大勢の行列が町を練り歩く。午後6時頃には船渡御が始まり、祭りもクライマックスを迎える。1937(昭和12)年の船渡御列は、200艘に達したというが、現在は警備の都合もあり、約100艘に制限しているとのこと。又、1953(昭和28)年の地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っているのだそうだ。
しかし、大川を飾り立てた百隻を超える船が威勢のよい掛け声と共に下る船渡御は壮観。そして、夜になると、奉納花火が、大阪の夏の夜空を焦がす。毎年、多くの観光客が見物に訪れるが、元禄時代には、討ち入りを控えた大石内蔵助の妻のお理玖さんと末息子松之丞が漢学者・藤江熊陽(忠廉)の案内で、天神祭の船渡御を堂島川に舟を浮かべて見物した。その時の様子は、忠廉が遺した『答客問』に記されているのだと云う。
私も若い頃、大阪の本町で仕事をしていた関係で、「天神祭」には、必ず、仕事仲間と一緒に見物に行っていた。
不思議なことは、この祭り見物をしていると、必ず、会社の他の見物客グループと出会うことだ。それだけ、皆が見に行っているということだろう。この祭りのある25日の今日は「日本最高気温の日」であり、「かき氷の日(夏氷の日)でもある。7月25日の7(ナ)2(ツ)5(ゴ)の語呂合せと、1933(昭和8)年のこの日に、日本最高気温の40.8度が山形市で記録されたことから、かき氷を食べるのにふさわしい日として日本かき氷協会が制定した日なんだそうだが、兎に角、この暑い時期の夏祭りに氷は欠かせないものかも知れないね~。天神祭りを見た後「 コンコンチキキコンチキチン 」という太鼓の音がまだ耳に残っている中、本当は、涼しい個室で浴衣の美人と、ハモを肴に一杯とやりたいところだが、当時は、まだ若かったので、そんな情緒的なことも考えず、飲兵衛仲間と、屋上ビヤガーデンで一杯といったところだったね~。もう、この年になると神戸から大阪までは見に行く元気もない。今は懐かしい夏の思い出である。ただ、今朝の天気予報では、台風が接近中、夕方からの天気が心配される。
(画像は船渡御の様子)
参考:
大阪天満宮公式HP
http://www.tenjinsan.com/index.html
18代目中村勘三郎、雨中の船乗り込み
http://news.goo.ne.jp/news/nikkan_osaka/geino/20050630/p-ot-tp5-050630-0015.html
隆慶オン・ザ・ロック :コラム・バックナンバー1/「おりくさんを案内した漢学者が判明!」
http://www.ikedakai.com/backnumber1.html







劇画の日

2005-07-24 | 記念日
今日(7月24日)は「劇画の日」。
1964年(昭和39年)に長井勝一氏によって設立された青林堂が貸本などを出版して得た資金を元に劇画雑誌「ガロ」を創刊。白土三平の「カムイ伝」をはじめ、水木しげる、つげ義春等が登場し、大人向けの劇画ブームの拠点になり、以来、数多くの個性的な才能を輩出したが、長井氏の死去に伴い同誌も衰退。1997年には休刊となる。その後、1998年に復刊するものの再々休刊。しかし再び1999年12月から新生『ガロ』となって復活。現在に至っている。
「カムイ伝」は、それまでの漫画が小説に比べてストーリー性が希薄であったのに対し、小説・劇画を超えた漫画として高く評価され、それまで評価が低かった漫画に新しいジャンルを拓き、時代小説に比しても遜色ない漫画路線の礎を築いた。
そういえば私も大人になってからも、漫画を夢中になって読んだ頃があったな~。ゴルゴ13、子連れ狼、御用牙、それに、白土三平のカムイ外伝等々。『カムイ伝」は人から借りて読んだが他のものは買って読んだ。これらは皆シリーズもので、沢山のマンガ本を量が多いので、読んだ後はダンボールにつめて置いていたよ。それが、約30数年前、今の家へ引っ越してきたとき、新しい家に新しい大きな本箱も設置したので、そこに入るだけの本にしようと、歴史本やお気に入りの小説だけを選び他の本はすべて人にあげてしまった。新築した家へ越してきて、ゆっくりと本の整理をすると、白土三平の「カムイ外伝「全冊」がないのである。そういえば、本を整理するときに、もう、漫画はいらないと言って中身も改めずにすべてダンボールにつめたまま漫画好きの人にあげてしまった。自分では、漫画の中で、この白土三平の「カムイ外伝」だけは特にお気に入りだったので、これだけはもってくる積りであったのだが・・・。引越し作業でバタバタし、近所の人も大勢手伝いに来てくれていたので、つい、取り出しておくのを忘れていたのである。今日このブログを書いていて、悔しい思いをしたのを思い出した。
因みに、1989(平成元)年2月9日が 漫画家・手塚治虫の命日にあたることから、漫画本専門古書店「まんだらけ」が「漫画の日」に制定。
私のブログでも取り上げたので、興味のある方は見てください。ここです。
(画像は、ジェネオン エンタテインメントで売り出されたビデオ「 忍風カムイ外伝」)
参考:
月刊漫画ガロ
http://www.freefactory.net/~nagai/garo.html
小学館:白土三平 画業50年記念出版 決定版カムイ伝全集全38巻
http://www.shogakukan.co.jp/kamui/

米騒動の日

2005-07-23 | 歴史
今日は「米騒動の日」
1918(大正7)年、富山県魚津の漁家の主婦たちが米の県外移出を阻止する集団行動を起こし、全国にまで広がった米騒動の始りとなった。
第一次世界大戦下の日本のシベリア出兵は、ロシアにおけるソビエト革命干渉戦争の一翼だけではなく、バイカル湖以東の東部シベリアからソビエト勢力を追い払ってソビエト反革命派による日本の傀儡政権を起立し、これまでロシアの勢力範囲であった北満州を日本の支配下におき、あわせて中国本土の政権を日本に従属させるという全アジア大陸支配構想の一環であった。この構想は、陸軍の大規模な軍事拡張と国内の戦時下体制、すなわち民主主義の圧殺を意図するものでもあり、このような意図を含むシベリア出兵は連合国との強調出兵ではなく、日本独自の単独出兵でなければならなかった。軍部の考えるこの単独出兵案は、アメリカなどの反対を理由に、一旦沙汰止みとなった。しかし、その後、袁世凱死後の中国内の情勢変化などから、日本軍の地中海派遣の見返りに、日本がドイツの東アジア・南太平洋権益を継承することを、連合国に認めさせ、アメリカに対しては、石井・ランシング協定(1917年11月)により、日本が中国、とくに満州で「特殊の利益を有することを承認」させた。そして、1918(大正7)年7月、アメリカが英仏の要請を受けてシべリア出兵を提議するや、寺内内閣は、出兵の名分が出来たとして、反対派の原・牧原などの意見を押し切って、8月2日出兵宣言を発した。アメリカは日米同兵力の7千名づつの出兵を提案したが、陸軍は一挙に7万2千「(うち1万2千は北満州)の大軍を送り込んだ。こうして、アジア大陸東部制圧の夢が実現するかに見えたとき、その足元をすくったのが「米騒動」である。政府のねらう出兵効果は、国内の戦時体制化にあり、このときも、挙国一致体制が実現するはずであった。しかし、大戦下のもと、日本経済は、軍需関係産業などは異常な好況にめぐまれ、鉄成金や舟成金が続出した反面、一般民衆は、インフレのため、かえって、生活難に見舞われていた。中でも、民衆を最も苦しめたのは、米の値上がりである。米の暴騰は、基本的には非農業人口の急増と、大米穀商や地主の投機的な買占め、売り惜しみが加わったからであるが、寺内内閣は、インフレ抑制策に対して全くの無策であった。このような中で、米価に最も決定的な影響を与えたのがこのシベリア出兵であった。
このとき、神戸市を例にとれば、1升あたりの米価が7月16日に、36銭8厘であったものが、8月1日には40銭7厘、8日には60銭8厘と8月に入って1週間ののうちに5割も値上がりし、民衆を極度の不安に陥れた。(週刊朝日日本の歴史より)
このようなことから、1918(大正7)年7月23日、富山県魚津町の漁家の主婦たちが米の県外移出を阻止する集団行動を起こした。これが全国に拡大し9月まで続き、鎮圧に軍隊まで投入され、寺内内閣が倒れることとなったのである。
この富山県で発生した米騒動が日本各地に広がり、神戸でも、8月11日湊川に集った群衆が米屋を襲い、12日夜には、再び集合した群集が、当時米買占めの元凶との噂をされていた鈴木商店本社が焼き討ちにあっている。又、近くにあった神戸新聞本社までもが焼き討ちにあった。13日には、大阪や神戸では朝から騒乱状態となり、軍隊と衝突し、大阪で2名、神戸で4名の刺殺者が出たという。これを機に、日本の労働運動、解放運動、女権獲得運動、農民運動などが、活発になったばかりか、大逆事件以来火が消えたようになっていた社会主義運動も息を吹き返した。この米騒動こそが1920年代の「日本の大衆の時代」を開いた原動力になったといえる。
余談であるが、今では、神戸の人でも大正の頃、三井・三菱と張り合っていた新興財閥「鈴木商店」があったことを知っている人は少なくなったのではないか。鈴木商店は早く言えば、今の神戸製鋼や日商岩井、帝人、サッポロビールなどの前身で、大正6年(1917年)にはついに年商額で「三井物産」を凌ぐ売上を記録し、当時のGNP(国民総生産)の約1割をも占めるようになった。神戸の居留地で砂糖の輸入商として出発した鈴木岩次郎の個人商店がその後、岩次郎が逝去すると、その未亡人「よね」が店主となり、「よね」の全面的な信頼を得て経営を任された、番頭の金子直吉が発展させたのだが、「よね」の考えもしなかった米の買占めにも手をつけてしまったのではないかといわれている。
鈴木商店のことは、私のHP、nostalgia神戸[神戸のこといろいろ」No55”神戸に会った新興財閥「鈴木商店」破綻”で、簡単に記載している。興味のある方は見てね。
(画像鈴木商店焼討ち。写真神戸市文書館提供。習慣20世紀朝日クロニクルより。)
参考:
米騒動
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/133750.htm
米騒動 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95

下駄の日

2005-07-22 | 記念日
今日(7月22日)は「下駄の日」。
全国木製はきもの業組合連合会が下駄の良さを見直してもらおうと制定。
由来は下駄の寸法で7寸7分と「7」の数字がよく使われるためと、「雪道に二の字二の字の下駄の跡」と言われるように、下駄の跡が「二の字」となる事から「22」に制定したのだそうだ。
ところで、この下駄は履物の一種だが、日本独特の履物なのだそうだ。
遥か昔、古代卑弥呼の時代には、中国の魏志倭人伝に、日本人は「皆徒跣(かちはだし)」と記されている如く、日本人の日常生活は、はだしであったが、それより一世紀前の遺跡といわれる静岡市の登呂遺跡や伊豆韮山の山木遺跡などからは、水田耕作に使ったと言われる「田下駄」というものが発見されている。
これらは、はだしの生活の中で、足を怪我から守るための生活用具として考え出されたものだろう。
古墳時代から奈良時代に入ると、中国の影響を受けた沓(くつ)が宮廷を中心とした身分の高い人たちに履かれるようになるが、平安時代に入って、日本文化が独自の発達をみせはじめ、履物もどんどん工夫・改良されて、各地の生活・気候、風土に合ったさまざまな種類の下駄が作られ日本化したようである。ただ、普通の文化は宮廷、公家、僧、武士、庶民へと広がっていくが、下駄に関して、その広まり方は、下駄の前身足駄(あしだ)が民間からおこり、武士や婦女子にも履かれる様になっていたたようである。
今では、洋服に靴の生活が一般的となり、もう、下駄は趣味の世界の履物となってしまっているといえよう。
しかし、この下駄を履くと、足の指の運動・足の開放・足の裏への刺激とたくさんの健康効果があるのだよ。
下駄の適度な刺激が子供の骨の成長に、また頭に刺激が伝わり体内機能を活性化する効能もあるらしく、子供が元気に成長するようにと、スリッパ代わりに使用する保育園、幼稚園もあるとか聞いている。
私は素足が大好きで、若い頃は仕事以外、日常、家にいるときは下駄ばかり履いていた。素足に下駄は最高である。今でも、靴以外のときは下駄を履くことも多い。突っかけサンダル、草履などは靴下や足袋などを履いた上でないと気持ちが悪い。下駄の素足に伝わる木の優しい感触が大スキである。日本の蒸し暑い夏などには特に良い。そう言えば、終戦前から戦後しばらく、下駄の歯の高い書生下駄(足駄のような高下駄のことを「朴歯下駄(ほうばげた)」とも呼ぶらしい。)が流行っていたな~。私はこの下駄が大好きだったのでずっとこれを履いていた。歯が高いので、少し目線が高くなり、なんとなく見下ろす感じで気分も良い。この下駄を履いて布引の山など登った記憶がある。天狗のように高い下駄の歯を1本だけ使って登るんだよ。これが結構楽に登れるんだよな。天狗が一本歯の下駄(天狗下駄)を履いてたのが判る気がするよ。
昔、家の近くに下駄屋さんあった。今年は、浴衣が流行っているらしい。まさか、現代っ子だからと言って、浴衣に、モード履きやサンダル、草履などはいていないだろうな~。浴衣は、絶対にはだしで下駄だからね。
木製であるため、下駄で舗装した道路を歩くと特徴的な「カランコロン」といった音がするが・・・この音が涼しげでいいよね~。団扇を持って浴衣に下駄・・・。これも夏の風物詩だよね。
(画像は書生下駄)
参考:
下駄(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%A7%84
國學院大學学術資料データベース
http://frontier-db.kokugakuin.ac.jp/mmw/index.jsp
日本の履物下駄
http://homepage2.nifty.com/miyuki-honpo/index.htm