今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

フィンセント・ファン・ゴッホ(画家・ひまわり)の忌日

2005-07-29 | 人物
1890(明治23)年 の今日(7月29日)は、燃えるような代表作『ひまわり』の絵などで世界中の人々を惹きつけてやまない天才画家フィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent Willem van Gogh )が亡くなった日。 <37歳>
ゴッホは1853年3月30日オランダに生まれ、教師、牧師、画商など職を転々としたのち、27歳で画家となる。以後10年間、精力的に活動。表現主義を予告する独自の世界を築いた。1886年、36歳のときにパリへ移住。弟のテオが画商をしていた関係で、ドガやロートレックなどとの出会いに恵まれ、彼らから印象派の技法を学んだ。また、ジャポニズムのなか、日本の浮世絵の特徴である明快な色使い、影の無い世界にも大きな影響を受けた。そして、1888年、アルルへ向かった。それから死ぬまでの2年間の作品が、最もすばらしいものであったといわれている。
彼の画家としての出発は遅く、37歳で悲劇的な死を選ぶまでの、わずか10年の間に2000点を超える作品を残しているといわれるが、ゴッホの最も代表的な作品は「ひまわり」であろう。ゴッホは、全部で12点の 「ひまわり」を描いたそうだが、その内7点が、ゴッホ芸術の最良期であるアルル時代の作品であり、その前のパリ時代に5点描いているという。
日差しの強い南仏の町アルル、気の合った画家たちを集めて芸術家村を作るという夢を見て借りた通称「黄色い家」に、画家の仲間達を招待していたが、来たのはゴーギャンだけだったらしい。兎に角、そのゴーギャンを迎え入れる部屋に飾ろうと考え、燃えるような情熱を傾けて描かれたのが一連のひまわりの絵だそうだ。
しかしそのゴーギャンとの共同生活はたった2ヶ月で不和となり、ゴーギャンに自画像の「耳の形がおかしい」と言われると、ゴッホが自らの耳を切り落とすという衝撃的な事件の後、ゴッホに奇行が目立ち、アルルの病院からサン・レミの精神病院に収容され、治療していたが、最後はパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズに移り、1890年7月27日、この地で、猟銃で自殺をはかり2日後の29日に死亡したという(腹部に銃創があることなどから、不審者を恐れた住人に撃たれたと考える研究家もいるらしい)。
ゴッホには色々な奇行がみられるが、精神学上から見ると、彼の絵に多く用いられている鮮烈な黄色は、精神の不安定さを表しているともいわれているが、アルルで描かれた黄色いひまわりは、いずれも生気に満ちていて、今にも燃え上がらんばかりに、生命を輝かせており、これから住むはずであった共同体の仲間を暗示したものだとされている。
今でこそ、有名なゴッホの絵を世界中の人が、高額で手に入れようとするが、彼が生前に売れた絵はたった1枚のみであり、彼は、貧困と精神的な病気の苦痛等に苛まれる人生を送ったというから哀れな人生だよね。えてして、天才とはそうしたものかも知れないね~。
ゴッホの描いた2000点もの遺作は、画商をしていた弟テオの奥さんが所蔵していたそうたが、金に困って二束三文で売られたりして、その後散逸。最近ゴッホ美術館がオランダにできて、収集・保存活動が続けられているという。そういえば、2年前(2003年)、日本で開催されたオークションに洋画家の故中川一政氏が所有していたコレクションが出品され、その内の1点「農婦」の絵がゴッホ美術館の鑑定により真作であることが判明し、話題になったのを思い出した。まだ、探せば、どこかに埋もれているかも・・・?
(画像は、ゴッホ自画像、インターネット美術館より借用)
参考:
フィンセント・ファン・ゴッホ (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ:インターネット美術館
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h-inb1/h-pim/h-goh/IPA-inb370.htm
名画デスクトップ壁紙美術館 ゴッホ;《切られた4本のひまわり》
http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/FourCutSunf.html
2003.02.08朝日新聞/幻のゴッホ国内に
http://kiemon-web.hp.infoseek.co.jp/gohonofu.html
色彩のイメージ~黄~
http://members.at.infoseek.co.jp/iron_savior/yellow.htm