「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「祈り」

2017年08月06日 | ニュース・世相

                                      

8月6日、72年前のこの日。
世界で初めての「人が住む町への原子爆弾投下」という、おどろおどろしい記憶の日である。
今は、全世界で慰霊の祈りを捧げ、二度と核兵器行使のない平和を希求する「祈念の日」となっている。

爆心地とされる広島市中心街から40数㎞離れたここ岩国市も「防災岩国市」が発信する午前8時15分のサイレン吹鳴に合わせて、1分間の黙とうを捧げた。折よく帰省していた4歳の姫孫も、0歳の孫を抱いた嫁も、お父さんもばあちゃんも、揃って哀悼の気持ちを捧げた。
今日一日は平和を求める「祈りの日」でもある。

普通に働いて、笑ったり喜んだり、悩んだり悲しんだりする極めて普通の生活。これこそが「平和」というものの形なのだろう。
特別な贅沢や豪華な暮らしを求めるわけでは決してない。そんな我々のささやかな希望さえ、土足で踏みにじるような「脅し」を繰り返す物騒な国が間近に存在するこの現実。逃れようのない恐怖は大なり小なりいつもついて回る。

核戦力を十分に保有し、核による世界制覇さえ可能だとする大国が、核廃絶などに同調する気配など見せはしない。もっとも口先では何とでも言える。自国の利害が絡むこととなれば、核を振り回す封建国家に自制を促すことなどするはずがない。むしろ、対アメリカという戦略構図を蔭から支援している大国が幾つかある。正直に非核三原則を唱える我が国など、核の前には「アメリカの核の傘下」などという他力本願であり、本当に自衛できるのか、今の国力で専守防衛が本当に可能なのか、与党だ野党だと騒ぐ偉い人に本音を訊いてみたい。

この世の中から核をなくすという夢のような話の中ではあるが、唯一の核被害者つまり被爆国としては、このような悲惨な愚を二度と繰り返さないよう、世界に訴えかけるしか方法がない。そのことが実に淋しいし口惜しい。
考え方はそれぞれなので、どれが正解でどれが間違いなどという議論のための議論ではなく、本当に我々の生命財産を外敵から守るすべを構築して欲しいものだ。その上で、被害に遭った者だけが知り得る「悲惨さ」「非人道的蛮行」であることを世界に訴え、祈りを捧げる記念日として世界に発信したいものである。所詮声なき声として聞き届けられることはないのだろうが、8月6日の雑感と思召せ。

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