日本中をあげて満開を待った桜花。ご当地錦帯橋周辺では今日あたりがピークだったような。
まさに満開。真白く咲き誇る見事な桜は、毎年のことながらやはり目に焼き付けておきたくなる光景ではある。
ピークを迎えた桜は、早くも散り際を心得ているかの如く、穏やかな春の風に誘われ、ひとひらひとひら花びらを舞わせ始めた。
“ 散るさくら 咲いたさくらも 散るさくら ”
人々に待たれて花開き、さかずきを手に見上げられ「きれいね~」と褒められる。花見弁当の味をさらに美味しくさせる効用をもたらす。
但しそれもほんの束の間。咲いた桜は、見事に散りゆくさまもまた、美しく潔しとして讃えられるのである。
人間もまたしかり、人生に花を咲かせたら静かに散り際を待つことになる。
その時を静かに待つ段階になったのではないかと気掛かりな、近しい人のお見舞いに行ってきた。
これまでもおよそ月1回のペースで見舞ってはいたのだが、今日の場合、少し気が重くなる感情を捨てきれずに出かけた。
今年の1月3日、満104歳の誕生日を迎えた叔母さん。
3月初めにちょっとした風邪をこじらせて、悠々自適の介護施設から、高齢者対象の病院に入院を余儀なくされた。
私たち夫婦の顔を見るなり「あんたらーの顔を見るのが一番うれしい」などと、はっきりした言葉で歓迎される。
でも、ベッドに寝たきり、点滴2本のチューブに繋がれている。ホンの一口の差し入れも持参できない状況の中で「あんたのお作りる寿司が美味しかったね~」としみじみカミサンに言う。本当はわざわざこしらえてでも我が家の寿司を一口食べてもらいたいのだが。
今そんなことをすれば、たちまち面会お断り、入室禁止などのペナルティを受けることになる。
出された昼食はゼリー状の流動食が少々。それを看護師さんが食べさせる「いまはいらん」といって食べなかった。
「今は11月かねー、もうちょっとで正月がくるんじゃろ?」と、これまでにはなかった季節感にさえズレが生じて来たような。
無理もない。テレビも新聞も、いわゆる世の中から隔離されたような寝たきり生活なのである
「今は4月で、桜が満開よ」というと「あんたの孫も進学かね」と、一気に現実に戻るあたりは、まだまだ以前のままの叔母である。
こんな会話を何度となくおふくろと交わしてきただけに、なんとなく目頭が熱くなったりする。
この病院での最高齢を誇る叔母さん。もう少し、いやもっともっと生きていてほしい・・・と欲張ってしまう。
さくらは満開になれば必ず散り始める。叔母さん桜はまだ満開になっていないことを信じながら、病院を辞した。
来年もまた桜の話をしたいもんじゃね~。
美味しい手作りのお寿司を一口でも食べさせてあげたいですよね。
身近で頑張ってくれる人の存在で力をもらうことって多くある様に感じます。
今年の桜は散りつつありますが、来年お花見のお話しを是非聞かせてあげてくださいね。
人の一生に似ている花の命。
もうちょっと咲いていてほしいような。
そして今一度自分の歯で噛んで食べる楽しさを味あわせてあげたいと思います。
ただ、こちらの一方的な望みを押し付けては気の毒な部分もあるようで、ちょっと複雑なんですよねー。