断捨離とは数年前から言われ始めており、「モノを持ち過ぎない」「要らないモノを処分する」といった意味から、「身辺整理をすることで、自分のこれまでのライフスタイルを見直すきっかけにする」など、色々言われている。
そして、断捨離が上手な人ヘタな人に大別されるようで、ただ欲深いとか、モノへの愛着の濃淡だけでは図りかねる色んな要素が含まれている。と思う。
かく言う小生は、断捨離という点では全くヘタである。ヘタと一言で言うのか、モノに対する愛着が深いというか、何かの理由を関連付けたり、思い出に結び付けたりして結局断捨離しきれず、身の回りに置いておく。終いには「こんなモノ要るの?」とか「何年も触ってないモノはもう無くなったモノと同じよ!」などと同居人になじられることしばしば。実はおっしゃることが大いに当を得ていて、反省はするのだ。反省はするがなかなか断捨離実行とまでは行かず、ホンの少量を「これだけは思い切って処分しよう」などと言ってはみるのだが、実効はあまり上がっていない。
こんな様子はモノばかりに限らない。あれこれ思いついたエッセイもどきの小文やキャッチフレーズなども保存の対象である。自分の中でお気に入りの書きかけエッセイなどは大切にしまってある。ところが、リスがエサを貯め込んでどこかに隠す。隠した場所を忘れて改めて探し回る行為と同じで、外付けハードディスクだったか、USBか、それともPCのDドライバーだったか、わけ分からなくなって探しても探しても見つからないときは、釣り人の言うように「逃がした魚は大きい」で、あの文章はどこにでも使えるいい文章だったのに。あのフレーズはいつかどこかで使おうと大事にしまっておいたのに。などと、未練タラタラ探し回る。
時間と労力をかけた分、見つかったときの嬉しさと安堵感は天にも昇る心地する。逆に何回試しても、いくら探し回っても出てこないときの焦燥感。打ったはずのメールが相手に届いていなくて消えてしまったとき、前と同じ文章を考えるときの空しさとエネルギーの要ること。一度や二度は経験されているご同輩も多いことだと思う。
実は昨日から、そんな失せもんの捜索に時間をかけすぎて、一回分のブログが飛んでしまったといお粗末。でも今日やっと、古い書きかけのお気に入りエッセイもどきが見つかった。よかった。逃がした魚はあまり大きくなかったが、兎に角しまっておいたモノが見つかった喜びは、他人には理解出来ないね~。やはり断捨離はほどほどに、かな。
捨てる・・・という行為は意外に難しい。太極拳の学び中でもこんなに余分なもの、感覚、筋肉脂肪などがどんだけ自分を縛ってたかと呆れたり発見したりして驚くことがあり、「捨てる」は感性としては「禅」の世界の話的で・・思えば、私達は「立禅」をしてるなぁと思うことシバシバ・・・なんて思ったりしてます。
必要で無くなれば、いつの間にか仕舞っておいても姿を消す・・・的な安直なワタシ的発想はオカシイでしょうかね(笑)
必要なら必ずどこかから現れたりする(笑)あ、ダメですね~こんなコメントじゃ(笑)ごめんなさ~~い(^_^;)まだドーパミン・・・多いかも~お許しあれ~
ええんですよ、自分で考え自分で責任とることに、gooだのダメだのはありませんよ。
確かに、人によっては「捨てる」禅の世界と受け止めるのも有りですよ。言われてみて気付きましたいね(笑)
いずれにしても、自分の気に染まぬことは誰がなんと言おうとうっちゃるべしです。
断捨離出来ると素晴らしくて、出来なきゃ落ちこぼれ?ならば落ちこぼれで結構。マイペースほ気楽なものはないですよ。