「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「来世への宿題」

2018年08月12日 | 季節の移ろい・出来事

              

8月11日は一昨年(2016年)に施行された国民の祝日「山の日」であることは、先刻ご承知の通りである。
「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨で制定されたことも、ご承知の通り。ただほかの祝日と異なり、山に関する特別な出来事などの明確な由来があるわけではなく、「山の日」を国民の祝日にしようという様々な動きによって決められたという注釈も付いている。

今さら言うまでもなく、日本は国土のおよそ7割が山地で、周りを海に囲まれていることから、山や海に畏敬の念を抱きながら生活し、それらの恵みに感謝しながら自然とともに生きてきた長い歴史は、今も変わらず人々の心の中に息づいている。
1995年に「海の日」が国民の祝日として実施されると、山梨県をはじめ複数の府県で「山の日」ができ、2002年の国際山岳年に「山の日」制定の構想が本格化したと言われている。

ついでに言うなら、なんで山の日が8月11日なの?という素朴な疑問が。
それはね、八月の「八」の字が山の形に見えること。つぎにやまに生えている木立の様子が11を連想させることから、単純に8月11日がよかろう、という少し曖昧、少しいい加減に名付けられたのかな、などと思わせる節もある山の日ではある。

別に山の日が制定されたからと言って、個人的に格別な意見を持つわけでもなんでもない。
と言いながらも、山にまつわる一つの人生話と言えば「とうとう富士山を征服する夢が叶わなかったな~」という後悔にも似た感慨である。
「まだいけるよ」などの思い遣りある声も聞こえはするものの、自分の中で腹の底から「行きたい」という気持ちが起きないということ。
今はもうこの足で富士山を征服するよりも、あの美しい姿を遠くから眺めて「自然が生み出した美の最高傑作」として心に刻む方がいいと達観したということか。

年寄りが無理をして富士登山に挑戦して、周囲の人に迷惑をかけては末代までの汚点を残す。
それよりは、今一度新たに人間として生まれるとするなら、元気ハツラツ、若いうちに富士山征服をしてみたい。
その時、「前世もそんな思いをしたのか」などと振り返ってくれればそれもいい。
ということで、この世でやり残したことを来世への宿題として残しておこう。ちょっと未練がましいと嗤われるかもしれないが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横幅を広げる

一行の文字数を増やしたい