あれから丸6年の歳月。100歳を生きた母の、今日が7回目の祥月命日。
晩秋の冷たい雨が降る、昨日日曜日。お寺さん、親せき一同集まって、ねんごろな七回忌法要を営んだ。
計画段階では、法要が命日の前日になるので、あまりにも近すぎて常識はずれなのかな、などと心配した。
ところが、菩提寺住職さんの話では、祥月命日当日に法要を営むのがベスト、と教えられた。
命日を過ぎても、法要を営む親族の気持ちさえあれば何も問題ない。との付け加えもあった。
むしろこのたびのように、命日の前日法要は、べストに準じるくらいの値打ちがあるというお話に安堵もしたし、いい勉強もした。
思い起こせば6年前。「もう少し生きて欲しかった」「もっと色々して上げることができたのでは・・・」などと、悲しみの中で心乱した。
今にして思えば、あれ以上長く生きることを望むのは、己の欲以外の何物でもないことに気づかされる。
母は母なりの生涯を目いっぱい生きた、それが100歳7か月という寿命であったということ。そう思うことで、後に残されたものの気持ちも楽になるし、母自身も心置きなくお浄土へ旅立たれたということになるのであろう。
人間生まれ持った四苦八苦。四苦とは、「生・老・病・死」。つまり、生きることも死ぬことも苦難の道である。その苦難に立ち向かう人間の強さ逞しさが、苦労を苦労と感じない生き方をして頂きたい・・・と。40歳前の独身の住職さんが説法された。
しっかり受け止めるかたわらで、出来れば苦労の多くない無難な道を歩みたいと、仏壇にも墓前にも手を合わす。
一番出席して欲しかった母の妹、つまり叔母さんは、102歳11ヶ月の今もまだまだ元気に、特養施設で悠々自適。
施設住まいなので、法要への出席は叶わなかったが、その叔母から身に余る伝言とお香料が供えられた。
早いお話が、1歳5ヶ月のひ孫から、102歳の妹に至るまで、全セ代を網羅して法要の営みに参加してもらえた母は、やはり幸せ者と言えるのだろう。
若い時から苦労のしっぱなしであった姿を見ているだけに、「幸せだね~」などと言ってあげられる「今」を喜びたい。