怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

評価

2005-03-27 09:58:11 | 教育
いわゆる通信簿の評価は私見にすぎないという話はよく聞きます。
私も、結局は数値化を基本にしていかなければ、そういう議論になると思います。
ただ、テストのみではかれないものに対して評価軸をもうけるとき、常にそういった批判にさらされる危険があるということなんだと思います。
私たち教師は、評価に対して説明責任をもっているわけで、しかも、絶対評価ともなれば、自分の指導力さえ問われかねないということでもあります。
また、評価に関して、最低でも学校の共通軸(評価規準)をもって、使用していないと問題となります。
なぜならば、学校でどんな子どもを指導・評価しているのかが、教師達に徹底されていないということになるからです。
そして、全ての評価の責任は校長がおうわけですから、そういったシステムを考えても必要当然なことになります。

評価の方法は、様々な書籍に答えを求めていもいいし、具体的に、その学校の児童や保護者ならば、その学校に評価規準を求めてもいいはずです。
私たち教師も明解な評価と指導を目指していますし、実績を積み上げてもきています。

しかし、現実問題として、不遜な教師がいることも事実。
http://blog.livedoor.jp/gimukyoiku/tb.cgi/17306299
私はこうしていろいろ情報や所見をブログやHPで述べながらも、どうにもならない人的被害を否定することができないことは残念に思っています。

話は変わりますが、
教師のキャリヤや個性の多様性はあっていいはずですし認めてほしい、一方、自己改革ができない未熟者をどうするかという点のプログラムができていない点は憂慮すべきだと思います。
しかも、現教育委員会では、そのような問題に対して有効な対策をとらないどころか、切り捨てのみ先行しようとしています。(具体的に記述できなくて苦しい部分)
希望は、われわれのような21世紀に教員になったものは、厳しい現状の中で鍛えられているということです。
ぜひ、地域・保護者は温かい目で見つめてほしいものだと思います。
(最近の保護者や現場は、可能性を切り捨ててすぐに若い者を潰してしまう傾向も見えています)
今、学校公教育は激動の時代を迎えています。これからも注意深く見つめてほしいものだと思います。