怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

またまた素人発言

2005-03-05 23:24:30 | 教育
「競争は悪とする教育がニート助長」 中山文科相語る (朝日新聞) - goo ニュース
>2005年03月05日(土)=「競争は悪とする教育がニート助長」 中山文科相語る
>中山文部科学相は5日、通学や仕事をせず、職業訓練も受けない若者「ニート」やフリーターが増えている問題について
>「競争は悪だとしてきたが、社会に出ると競争社会で子供が落差に戸惑う。こういう今までの教育は、ニートなどの予備軍の『大量生産』に手を貸しているのではないか」
>と述べ、教育現場での競争の重要性を強調した。

なんと非科学的な論調か。
どこに因果関係を求めているのだろうか。
「児童に直接聞く」なんてことも非科学的だが、聞いてみた所で子どもの社会にさえ、大人の影響下にある競争やその結果生まれている格差を意識はされている。
単純に、習塾率(習熟ではない)をみたって、子ども達は競争や序列化を強烈に意識しているだろうことは予測でききるし、今の親世代にしたって、自分の子どもの時期と比べてみても、よほど競争に関してデリケートかつ複雑に意識しているはずだ。(少なくとも私はそう感じる)

もちろん、みんな並んでゴールイン徒競走とか、序列を意識した指導は現行公教育では行なわれていないが、そのことより、よほど社会情勢や経済情勢が人のライフスタイルやライフサイクルに影響していることの方に目をむける方がより現実的な教育的対応を考えられると思う。

つまり、子ども達には現在の社会や将来の社会の中で、どのように(うまく)生き抜いていくべきかを考えさせ、そして、指導者はそのことをふまえ、社会的な人間を育成するべく考えるべきなのであると思う。
教育的指導では就職口は増えないのであるから、その中で自立的・自律的に生き抜いていく力、社会という大海へ漕ぎ出していく力、展望を見いだす力、そしてそれぞれへの応援をし、希望をもたせることが第一なのではないだろうか。
私の時代は「モラトリアム」と呼ばれたが、踏み出す方法や勇気が必要なのである。
唐十朗の言葉なら「自分が何ものか分からなかった」だから「演劇に飛び込んでなんでもやった」は、平均的になんでももっている時代には、絶対的な自分の位置が見いだしにくく、そして唐のようになれない非凡な者は、めくら撃ちで何かの世界へ飛び込むためには、後押しが必要なことを示している。経済的な条件が厳しければさらに足はすくむのだと思う。
高度経済成長期に時代に飲まれて生きた人には分かるまいであるGギャップかもしれない。
ちょっと話が小学校から世代を飛び越してしまった。(またの機会まで、一時停止したい)

>また文科相は、学校現場での国旗掲揚や国歌斉唱について、「国旗・国歌には敬意を払うことを先生方が教えないと、教え子がひどい目に遭うこともある」と指摘。
>「(教職員に)どういう考えがあっても、そういう(国旗・国歌には敬意を払うものであるという)問題があると教えるのは教師として当然だ」と述べた。

国旗・国歌はいずれ記述するべきテーマだが、国の象徴(あるいは偶像)である国旗・国歌を教える機能を有するのは、やはり教育機関になるだろう。私は法律は法律としてある程度肯定をする立場だ。国旗・国歌はあるていど決まった物としてはとらえている。
しかし、そのことと、例えば行事・式で掲揚や斉唱を強要することとは別問題である。国旗・国歌はそうしなくても国旗・国家として認識されているし、現行指導要領の範囲内で、指導カリキュラムをはっきりさせ、実施させればいいだけだと思う。(そこまでやれば、いやでもやるよ。少なくとも俺は。)
例えば、6年生の世界の情勢を知る中で、あるいは4年生の首都と世界のつながりにおいてでも、日本の国旗を教える機会(日本にも国旗があってね、これだよー・・・とか)はもてるわけで、国家も年間指導時数を3時間とかに決め、指導方法も3回はフルコーラスで歌うとか、決めれば良い。(まあ、こんな程度にしてほしい希望も入っているがね)
やれ式には前面だ、自治体旗より多きくだ、花がかぶってはだめだ、いうから滑稽以上にカルト宗教チックになり、いやらしくも見えるのだ。
行事には国旗掲揚だとかいいうのは戦後自由教育を受けて来た世代からいえば古いのでは?ともいいたくなる。
教育的に大きな価値は見えにくいし、学力向上にはつながらないがいかがだろうか。
最後に国旗について教育・指導するって、国際理解や歴史的な見地以外では具体的にどうやるんでしょうか?
旧海軍の旗に似ているねぇ・・・なんて、やらないよなぁ。
まさか、国旗があがれば愛国心とかいうのじゃないでしょうね。(あっ、お子さまランチか?)
いずれ稿を改めることを約束して、ちょっとごまかし気味のC調で終わります。

性教育

2005-03-05 21:54:36 | 教育
その論調にいつも一つ納得させられるブログ「できるだけごまかさないでに考えてみる」からの情報(ニュースソース)をを私なりに咀嚼してみた。
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20050305/K2005030403750.html?C=S
>2005年03月05日(土)=首相、性教育教材「問題だ」参院委答弁で批判
>小学校の性教育の授業で使われた教材の是非が、4日の参院予算委員会で取り上げられた。
>自民党の山谷えり子氏が性行為を図解で示した教材などを例に認識をただした。
>小泉首相は「初めて見たが、ちょっとひどい。問題だ。
>こんな教育は私は子どものころ受けたことはない」と述べ、行き過ぎだとの認識を示した。
>山谷氏が取り上げたのは小学校低学年・3年生の教材。

現行指導要領下ではカリキュラムとして低学年時に生活科等で自分の出生や育ちを振り返る単元を設定することができる。保健(体育)によらない性的な学習に触れる可能性がある機会である。
しかし、具体的には、いくらかの女の子が初経をむかえるあたり、すなわち4年生で自分の成長を見つめ、身体を大切にし、その後の発育をよりよく知り、考える中で性徴についてと思春期を迎える心構えと性差について男女協調的にすごすための指導にふれるのである。
つまり、ここで具体的に議員がどのようにコメントしたかは知らないが、記事にあるような記述は間違いで、示された教材は4年生の後半であつかう教材であるということだ。
ここは後の中山文科相の発言に関わる問題なので、はっきりしてきしておきたい。

>首相は「性教育は我々の年代では教えてもらったことはないが、知らないうちに自然に一通りのことは覚える。
>ここまで教える必要があるのか。教育のあり方を考えてほしい」と批判した。

この首相の発言はまさに間違った性教育を言っている。
現在ある性についての情報は善し悪しを問える量、質ではなく、テレビ、ラジオ、雑誌はいうに及ばず、あらゆるメディアに氾濫しているといってよい。
その渦中にある成長期の子ども達に対して、学校が性についての教育(メディア対策を含めた)を行なわなずにだれが行なえるのだろうか。
知らないうちに一通りのことを覚えるとは、逆に悪しき情報や地域差は問題が無いという発言だ。
そんな内に性病がまん延したり、外国で性売春買春の恥をさらしたり、ひいては性犯罪を生むのではないだろうか。
(小泉さんはきちんと性の教育を受けていないから、そんな知識しかないのである。これぞ存在による証明。)

>中山文科相も「子どもたちの発達段階に応じてきちんと教えるべきだ。
>行き過ぎた性教育は子どものためにも社会のためにもならない」と答弁。全国調査を検討する考えを示した。

私は東京都所属であるから、少なくとも都の研究員が数年前に発表しているモデル授業を単純に授業で適用してくれるだけで、小学校中学年の性教育はあるていど目標は達せられると思っている。
そういった意味で、規準的にはそんなものを使い、精確に実施しているかを調査してほしい。
また、以前問題化した養護学校等での性教育は、社会に出た時、性の社会問題から児童・生徒を擁護する立場で見てほしいと思う。
この件の山谷えり子氏指摘の教材を指して、「行き過ぎた性教育」といっているとすると、非常に歪んだ見方を懸念せざるを得ない。少なくとも発達段階は考慮してカリキュラムは組まれている。3年生の初期段階で教えている教師がいたら、少なくとも管理職は処分を免れ得無いが、そんな者は(常識的には)まれではないだろうか。

「性教育の用語」についてだが、私の実践例を述べて、このブログを読む人に問いかけたい。
私は医学用語とことわって「ペニス」「ワギナ」などの用語を使うが、説明の都合上で用いている。
特に、「ペニス」は簡単に「チンチン」なる使いやすい俗語があるのでいいが、女性器は困る。
「おまんこ」等の俗語はあるが、耳慣れなれしておらず、使いにくい。
さらに、その俗語こそ性が抑圧されている姿の一例であるのだから、その点についても一言説明を加えて、医学用語を使う。
四年生程度では、特に男子の性差意識は程度が低く、きっちり大切である事や、成長を考える流れの中でないと指導は難しいと考えている。そんな意味でも私は正確に伝えるべきは伝え、後につまらない・あるいはいやらしい疑問の残らないようにしている。
これは私が高校時代に、その道(性教育)で名をなしているある先生の性教育を受けている影響は否定できないが、現在ある小学校教育中の性教育カリキュラムは、その流れに違わない。
それゆえ、自信をもって授業しているし、一度は授業参観でもやってみせている。(保護者への啓蒙も非常に大切だと思っている)

>また、男女共同参画担当相の細田官房長官は「社会的・文化的性差の解消」を意味するジェンダーフリーという言葉について「政府は使っていないし、社会的に定義を示すことはできない。
>できるだけ使わないことが望ましい」と述べた。

性差解消の問題に関しては名簿の問題しかり、児童全員に「さん」づけしかり、人権の問題等等に関連して話し合われていくだろう。
個人的には、それこそ社会一般で通じているものを採用すべきで、あとの理屈付けは他の人に任せたいと思っている。
(とくに全員「さん」づけは、町中で、風体が男の子(幼児)に見える人に名前を聞く時に「君は(あるいは僕は)何君っていうの?」という名前の聞き方が人権侵害だ!とか、性差を解消していない!と回りから突っ込まれる社会になったら考えたいと思う。)
教師こそ、社会の中で率先して実践していく立場だろという、責任転嫁や摺り替え理論はたくさんである。教師は単なる風見鶏ロボットではない。