スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(池田世代の日本不信感)

2023-11-20 10:26:04 | 日記
11月20日(月)
 私は思うのだが、昨日まで鬼畜米英、天皇陛下のために死ねと教えられ、且つ自分でもそう信じていた青年が、一変して親米、日本は悪かったというのが当たり前になった世相に接して、激しく戸惑い傷つけられただろうことは、想像に難くない。私は昭和22年生まれであるからそのような体験はない。人格形成の始めから戦後教育であったからだ。しかし真面目な青年ほど、教科書に墨を塗れと言われたとき、どう心の対処をつけたのであろうか。
 私の中学三年の時の担任の先生は、回天の搭乗員だった。彼は我々にものを教える立場である。帝国海軍の下級兵思想と戦後教育との矛盾に、どう対処して教えていたのであろうか。当時はそんな疑問を持つ筈もないから、当然聞いたこともない。卒業後の同級会で先生から回天を懐かしむ色紙を貰ったことがある。心中は複雑であったと思う。
 多くの人が解決できない問題として、心に蓋をしたことだと思う。そうして食わねばならない現実に、各人がそれぞれ置かれた立場に応じて、現実的な対応をしていったのだろう。だが確実に心に残ったものがあると想像する。それは、国は信用できない、という、確信である。
 この確信があればこそ、戦後の左翼思想の蔓延りが、説明できる。国もマスコミも学者も、今まで言っていた事が全て噓だったのなら、禁止されていた共産主義の方が正しいのではないかと、人々が思ったのである。だから池田大作をはじめとする多くの文化人が、東大を出るような優れた頭脳を持っていたにも拘らず、これまた悲しい事に戦前の軍国思想それ以上の、共産主義に扇動された踊り手の役目を果たしたのだ。簡単に言えば戦前は軍国主義に騙され、戦後は共産主義に騙された、騙され続けの不幸な一生を送ったのである。
 無慈悲なようだがこういう人が死ぬのは良い事である。もっとまともな、リアルな感覚を持った世代の人たちが活躍できる場が与えられるからだ。
 戦前は間違っていたという戦前否定の擬制の上に、今の社会は成り立っている。池田世代はその擬制の変化に直面して葛藤したのだが、すぐ次の世代の我々は、擬制ではなく当然のものと受け入れて育った。そして平和が続いた長い間に、知識が進歩して、これは擬制であると、考えるようになった。戦前の自主独立から戦後のアメリカ支配に、八月十五日に日本の国家体制が変わったのだ。現政権が前政権を悪く言うのは、歴史の常である。思春期にこの変化に直面した人は葛藤して当然だが、我々は引きずられてはならない。そう冷静に捉えれるようになってきたのだ。
 戦前も戦後も同じ日本として一貫して捉えなければならない。軍国主義から民主主義への変化は、外圧の変化の結果だと捉えて、形態の変化に、過度の国民意識の分断を見ない事である。歴史というものは粘土のように、かなり弾力性に富むものである。外圧に応じて国の統治形態も人々の考えも、変わる(対応してゆく)ものだと知るべきである。そう考えれば戦前から戦後への移行も、理性的(対極の共産主義に入れ込むような事をせず)に捉えられる。



 










 

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