スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(広島 唾棄すべき碑文)

2020-08-15 12:03:58 | 日記
8月15日(土)
 今日は「終戦記念日」である。私は何時頃からか、この言葉を聞くたびに違和感が起こっていた。どう考えても「敗戦記念日」だろう。終戦という言葉には、台風とか地震が過ぎ去ったかのような、まるで戦争を自然災害のようにとらえようとする、歪んだ心性が伺える。広島の原爆碑文「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」もそうである。この主語は色々理屈はつこうが、日本語として素直に読めば我々日本人である。まあ雑賀とかいう馬鹿学者が選んだ言葉らしいが、では庶民の意思で戦争を避けた事例が歴史上あるか。またこれからならそれが可能だと思うか。
 碑文の「過ち」が「戦争」を指すとすれば、「繰り返しませんから」と誓う事で、戦争が避けられるのでなければ、碑文は意味をなさないが、そんな馬鹿なことはあり得ない。もしサンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約が結ばれていなかったら、大韓民国は竹島だけでは満足せず、絶対に対馬も奪っていたことだろう。誓うだけでは強欲な隣国の侵略は止められない。つまり戦争も避けられない。
 外交・同盟・軍事力などなど国の総力を挙げて相手国にかからなければ、戦争は防げない。また戦争を反省するとは過去の政治過程を詳しく調べて、こうすれば良かったのに何故それが出来なかったのか(例えば第二次大戦の勃発を受けて、なぜ日本は三国同盟を廃棄して大西洋にドイツ潜水艦狩りの艦隊を出さなかったのか、そうすれば日本は連合国の一員になれたとかの)あらゆる突飛とも見える選択肢を、突き詰めて考えなければ、今度は巧くやれる方策など、出てくるものではない。
 広島の原爆碑文の「過ちは繰り返しませんから」がそういう意味を持ったものなら良いが、とてもそうは思えない。原爆さえ自然現象と捉えて、今度は遭遇するような運の悪い事は無いようにしますからという、空約束の念仏で満足する、つまりはため息をついているだけという、歪んだというか無為無策の心性が窺える。