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「聚楽第跡」(じゅらくだいあと)

2009年06月16日 10時43分58秒 | 古都逍遥「京都篇」
 そこは何もなかった。ぽつんと冷たい石碑が物悲しく立っているだけだった。
 天下をとった豊臣秀吉がその力を鼓舞するかのように、諸大名に命じ10万余の人夫を動員させ、着工から1年余りで金箔瓦に覆われた豪華絢爛の「聚楽第」を完成させたのは、天正14年(1586)であった。

 平安京の大内裏旧跡の内野に構築した邸宅で、北は元誓願寺通、東は堀川通、南は下立売通、西は千本通を外郭とする規模だと推定されている。周囲を深さ5.4m、幅36m、全長1800mに及ぶ濠で囲んだという。
 内郭には本丸を中心に北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれていたそうで、これだけでも立派な城といえるだろう。そして周辺には武家屋敷、公家屋敷、町家などが整然と区画されて城下町のような景観を呈し、千利休も葭屋町(晴明神社に隣接)に「聚楽屋敷」を与えられている。

 九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務を行った。天正16年(1588)に、後陽成天皇の行幸を迎え饗応した。また、天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われ、天下に自らの力を誇示した舞台となったところである。
 また、天正19年(1591)、秀吉は洛中を取り囲む「お土居(どい)」の構築と街区の再編成を命じた。
 お土居は、東は鴨川、北は鷹峰、西は紙屋川、南は九条に至る延長22.5km、高さ約4~5mという大規模な土塁であったという。
 
 この造成とともに、各寺院を強制移転させる寺院街の建設も行われ、市街地東側に「寺町」を、北部に「寺之内」を造成させた。これにより京の都は、聚楽第と御所を中心とした城下町的形態に変容していった。
 この年(天正19年)12月、秀吉は甥である豊臣秀次に関白職を譲り、秀次は聚楽第に移り住んだ。

 文禄3年(1594)は秀吉は隠居後の居所として伏見城の築城を始めるが、翌年、謀反の疑いで関係が悪化していた秀次を高野山に追放したのち切腹を命じるに及んで、聚楽第は取り壊された。
 聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたが、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築されたという建造物も少なくない。その後、新たに京都新城とよばれる京屋敷が造営(現在の京都御苑内の仙洞御所)された。京都新城には関ヶ原の戦いまでは、豊臣秀吉の正室である北政所が住んでいたが、戦い後、徳川家康により破壊された。

 「聚楽」という名の由来については、秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた『天正記』のひとつ『聚楽第行幸記』に「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とあり、歴史家の間ではこれが秀吉の造語によるものだとする見方が一般的となっているようだ。

 現在、聚楽第はわずかに痕跡をとどめる程度で、確かな遺構は残っておらず、「梅雨の井」跡と伝える史跡が松屋町通下長者町上ル東入ル東堀町内にあるが「聚楽第遺構]との確証はない。また、智恵光院通出水通下ルの京都市出水老人デイサービスセンター付近に[加藤清正寄贈」という庭石も残るがこれも定かではないという。浄福寺通中立売の正親小学校北側に[聚楽第跡]の石碑が建っている。なお近年行なわれた調査では堀の跡などが発掘され、金箔瓦なども出土している。
 まさに、「夢のまた夢」のあとと言うにふさわしい聚楽第である。

 所在地:京都市上京区中立売通裏門西入南側
 交通:市バス千本出水下車徒歩5分、京都駅より市バス50番で、智恵光院中立売バス停下車すぐ。
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