「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「長岡宮跡」(ながおかぐうあと)

2009年07月07日 07時38分46秒 | 古都逍遥「京都篇」
 幻の都といわれていた長岡京を訪ねた。延暦3年(784)から10年間しか続かなかった都の大内裏跡。
 桓武天皇が奈良からこの地へ都を移したが、不祥事の続出や天災のため、延暦13年(794)平安京に再び遷都し、長岡京は荒廃し「幻の都」とも称された。

 長岡京は、山城国乙訓郡(現在の向日市、長岡京市、京都市西京区)にあり、近年の発掘調査により平城京の条坊制を踏襲しながらも官衙(かんが)の配置や規模には独自性を有し、平安京の造営に少なからず影響を与えた大規模(東西4Km南北5Km)な都であることが判明している。

 大極殿跡・小安殿跡は昔から「大極天(殿)」とよばれ早くから注目されていたが、昭和34年・36年に発掘調査され、その規模がようやく解明された。
 大極殿跡は、基壇(コンクリートの凹凸が基壇の裾を示している)は、東西41.4m、南北21.6mあり、南側3ヶ所、北側2ヶ所に階段を設け、北側中央に削られてしまっているが、その規模は聖武天皇の難波宮大極殿とほぼ同じで、難波宮式の瓦が多く出土することから大極殿は難波宮から移築されたものと考えられている。

 大極殿の北側には小安殿という建物が建てられ、東西31.2m、南北13.5mあり、北側3ヶ所、南側二ヶ所に階段が設けられている。建物は 柱の根石から東西7間 南北2間の切妻造りで柱間は4.25mの等間隔であったことが判っているようだ。(コンクリートの円盤は柱の位置を復原したもの)

 小安殿は長岡宮で初めて設けられたといわれ、それまでの都と違って内裏が大極殿から独立したため天皇が大極殿に御す時の休憩所として機能したようだ。
 これらの建物は 周囲を回廊で囲われ、北には昭慶門(しょうけいもん)、南には閤門(こうもん)が設けられ、大極殿院を構築している。大極殿の南には東西四堂ずつの建物を配する朝堂院があり重要な儀式や外国使節のもてなしはここで行われたという。

 平成9年(1997)の発掘調査で、「宝幢」(ほうどう)を建てた柱の掘形が発見されている。宝幢は、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ約9mの大柱の上に、青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)の四神の絵がはためき、鳥・日・月の華やかな飾り物が付けられる。宝幢は、天皇の権威を象徴するものであった。
 即位式と、元旦に盛大に行われる「朝賀の儀式」でのみ、大極殿の前に七本の宝幢が建てられるとのこと。

 延暦13年、都は葛野郡に移され平安京となり、長岡宮の大極殿や小安殿も解体されて平安京に運ばれた。
 以後 1200年近く、この地は「大極天(殿)」という地名だけが残った。 
 昭和40年(1965年)には国の史跡に指定され、現在このように公園として保存活用されている。
 発掘された木簡などの遺物は、向日市文化資料館に展示されている。

 所在地:京都府向日市鶏冠井町。
 交通:阪急電鉄西向日駅下車、徒歩8分。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「笠置寺」(かさぎでら) | トップ | 「千本ゑんま堂」(せんぼん... »
最新の画像もっと見る

古都逍遥「京都篇」」カテゴリの最新記事