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宗教信者全国集会「戦争法に賛成する議員には投票しないことを呼びかけ」<>

2016-06-08 14:53:48 | 社会問題 日々雑感

http://www.christiantoday.co.jp/articles/21052/20160604/shukyosha-shinjya-zenkokusyuukai-1.htm より転載しました

参院選で「戦争法に賛成する議員には投票しない」ことを呼び掛け 宗教者・信者全国集会(1)

2016年6月4日23時34分 記者 : 行本尚史
参院選で「戦争法に賛成する議員には投票しない」ことを呼び掛け 宗教者・信者全国集会
長田浩昭氏(原子力行政を問い直す宗教者の会代表)によって読み上げられるアピールを聞く会場の参加者たち=5月31日、東京都中央区の築地本願寺で

仏教やキリスト教・イスラム教など、主催者発表で300人を超える宗教者・信者が、5月31日午後2時より、築地本願寺(東京都中央区)で「『戦争法』廃止・憲法改悪阻止をめざす宗教者・信者全国集会 『殺さない 殺させない』―今こそ、宗教者・信者として―」を開催した。参加者らは、7月10日に投開票が行われる参議院選挙で「戦争法に賛成する議員には投票しない」ことを呼び掛ける運動を全国に広げていくことを確認するアピールを採択した(本記事の最後にその全文を掲載)。

この集会の終わりに「原子力行政を問い直す宗教者の会」代表の長田浩昭氏がアピールを読み上げて行動提起をすると、採択の際に参加者からアピール文の文言について、「宗教者の会なので、主権者たる国民とは誰のことを指すのか」という質問が出され、「主権者たる国民」という表現を「平和を愛する全ての人々」と書き換えた上でアピールは採択された。

参院選で「戦争法に賛成する議員には投票しない」ことを呼び掛け 宗教者・信者全国集会
アピールを読み上げる長田浩昭氏

開会と閉会時には、各人の信仰に従って礼(らい)拝が行われた。

開会後、この集会の呼び掛け人を代表し、仏教学者の山崎龍明氏(「戦争法案」に反対する宗教者の会代表)があいさつした。山崎氏は、「私はこの国が大変嫌な感じの国、あるいは何か息苦しい国になりつつあるということをこの数年、特に強く感じている」と語り、その例として特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認・緊急事態条項がもくろまれていることが「実に危険極まりないことだ」と語った。

「要するに国民にものを見えないようにし、言わせないようにし、聞かせないようにしようとする。これは何にも増して一番危険なことではないか」と山崎氏は警告した。「そして自衛隊をアメリカに差し出すという、こんな無謀なことを行おうとしている。そしてまた、ドイツ・ナチス政権が行った緊急事態、政府が緊急事態と判断したならば法律に先行して何をしてもいいという、断じてこれは許されることではありません」

「戦争というのは人間最大の蛮行であり、罪であると思っている。そういうものを歓迎するような向きがある面は、きちっと摘み取っていかなければならない」と、山崎氏は述べた。「戦争は人間を極限の悲しみに落とし込む。そして全て破壊する。戦争によって幸せになることは断じてあり得ないことではないか」

「戦争を遂行するためのあらゆる方法に関しては、どんなことがあってもノーと言っていかなければならない。『殺してはならない。殺させてはならない』。そのことが私たち信仰者の存在証明であり、最大限度の倫理だと考えている」と、山崎氏は話した。

山崎氏は7月10日に投開票が行われる参議院選挙について、「この選挙は実に大事な選挙。『あなたは平和を取りますか?戦争を取りますか?』というところに来ているのが、このたびの選挙だ」と語った。

参院選で「戦争法に賛成する議員には投票しない」ことを呼び掛け 宗教者・信者全国集会
開会のあいさつをする呼び掛け人の1人、山崎龍明氏(「戦争法案」に反対する宗教者の会代表)

その後、野党4党(民進党、共産党、社民党、生活の党)の各代表者がそれぞれあいさつし、両手を高く握り合って、野党共闘を表明。また野党共闘を呼び掛けてきた「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の筑紫建彦氏もこれに加わり、会場から大きな拍手が湧いた。

その後、筑紫氏が連帯のあいさつをし、同委員会では6月30日まで「戦争法の廃止を求める2000万人統一署名」を当面続けると発表しているとして、これに協力を呼び掛けた。

その上で筑紫氏は、「6月5日(日)、私たちは、『政治を変える、市民が変える』というスローガンで、国会を包囲します。そして国会だけではなくて、霞が関の官庁街でも、去年の8月30日のような情景を目指したいと思っています。また、6月19日には、沖縄で怒りと悲しみの県民大会が開かれます。私たちもこれに呼応して、やはり国会の正門前を埋めたいと思っています」と述べた。

「ぜひ皆さん、そういう行動をこれからも続けましょう。私たちの命と平和への祈りと行動だけがこの次の未来を守り創り出していくということをしっかりと確認し合いながら進みたいと思います。頑張りましょう」と筑紫氏は呼び掛けた。

総がかり行動実行委員会が作成した6・5全国総がかり大行動のチラシによると、この行動は、同日午後2時から国会正門前ステージと農水省・霞が関郵便局ステージ、日比谷公園かもめの広場ステージで行われるほか、午後2時半に全国で一斉パフォーマンスが予定されているという。

続いて、憲法学者の清水雅彦氏(日本体育大学教授・憲法学)は「安倍政権の憲法改正への戦略、その問題点」と題して基調講演を行った。

参院選で「戦争法に賛成する議員には投票しない」ことを呼び掛け 宗教者・信者全国集会

 

憲法を変えて「戦争のボタン」を押しますか?「自民党憲法改正草案」の問題点』(高文研、2013年)などの著書がある清水氏は、「自民党改憲案の内容と問題点」について、その基本思想や前文、天皇(1章)、平和主義(2章)、人権(3章)、統治に言及するとともに、改憲論における緊急事態条項論をめぐる最近の代表的な議論や、中山太郎氏の「緊急事態に関する憲法改正試案」(2011年)と自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年)の主な内容や問題点、国家緊急権を容認する事例、日本国憲法の場合における国家緊急権に言及した。

清水氏は、国家緊急権論が「全面改憲のための『お試し改憲論』であり、これだけで危険な改憲」だと述べた。そして改憲論との向き合い方として「まずは理念の実現、望ましいのは国民の側からの国家制限論」だとした。

さらに清水氏は「戦争法に対抗する理論と運動」について「戦争違法化の歴史と憲法の平和主義」「安倍の『積極的平和主義』と憲法の平和主義」「戦争法反対運動の成果と課題」という観点から述べた。

清水氏は終わりに「以上の改憲案・最近の状況から思うこと」として、安倍晋三・安倍政権と中曽根康弘・中曽根政権の共通性を指摘した。

「中曽根首相は『サッチャー首相のような大統領的首相になりたい』と言い、安倍首相自身が大統領的首相に着々と突き進んでいる。国会でも『私は立法府の長』と何回も言っている。何回も言うからには、これは確信犯みたいなもので、行政府の長と立法府の長を兼ねたいかのような願望が出ているのかもしれないし、国家安全保障会議の設置や聞く耳を持たない政治手法などは、まさに大統領的首相になろうとしている」と清水氏は述べ、「もし自民党の改憲案の緊急事態条項を盛り込まれたら、内閣総理大臣が簡単に緊急事態の宣言を出し、内閣で政令を出していくわけであって、本当に大統領的首相になりかねない」と警告した。

その上で清水氏は、「そういう意味でもこれからの選挙は、単に戦争法廃止のために野党が頑張って選挙に勝つだけではなくて、こういう危険な改憲をさせないという意味でも大事な選挙になりますから、私も声を上げていきますけども、皆さんも野党共闘・そして選挙に勝つ、選挙が終わっても地道な市民運動を続けていく、そういう取り組みを全国くまなく続けていきましょう。共に頑張りましょう」と結んだ。

その後、この集会の呼び掛け団体から、日本宗教者平和協議会理事長の荒川庸生氏、カトリック東京大司教区司祭でカトリック中央協議会事務局長の宮下良平神父、お題目九条の会会長の石黒友大氏、平和を実現するキリスト者ネット事務局代表の平良愛香牧師、日本キリスト者平和の会代表委員の吉田吉男氏、そして協賛団体から日本イスラーム文化センター事務局長のクレイシ・ハールーン氏が、それぞれあいさつした。

荒川氏は、「今の状況というのは、時代の変換の時に立たされている(状況)。戦争によって殺された子の弔いを親がするような状況は断じて生じさせてはならないと思っている。日本宗平協の考え方としては、今大変な状況にあるところの沖縄の問題、原発の問題、そして戦争法の問題は、明らかに通底している事柄であると理解している。私どもは23日から25日まで沖縄の名護で理事会を開催した。沖縄はまさしく今怒りが沸騰し、苦しみ・悲しみが頂点に達している。私どもは辺野古の海で抗議船に乗りながら祈りをささげ、かつ嘉手納の基地前で命を奪われた20歳の女性の方への追悼と全ての沖縄の基地がなくなることを念願して祈りの集いを行った。クリスチャンであった伊江島の阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんの非暴力による米軍との闘いに学びつつ、戦争法の廃止・憲法改悪阻止の闘いをこれからも進めていきたい。宗教者・市民・野党4党の皆さんと連帯しながら共に闘っていきたい」などと語った。


続いて、宮下神父は、昨年2月25日の司教団メッセージ「平和を実現する人は幸い〜今こそ武力によらない平和を」に言及するとともに、常任司教委員会による今年4月7日付の声明「今こそ武力によらない平和を―安全保障関連法の施行にあたって―」から、「3.日本国憲法と戦争放棄」の一部と、「4.集団的自衛権行使の是非」にある最後の二つの段落を読み上げた。

宮下神父は安保法制案が「可決」された昨年9月19日に国会前で見た老夫婦の姿に「感動し、涙を流した」と語り、「これほどまでに大切にしたいと思っているという人たちが雨の中でも来ているということで、私たちが決して忘れてはならない大切なものを先輩から教えられているような気がする」と述べた。

「私たちはそれぞれの場で、これを次の世代に伝えるために、しっかりと自分の思いを伝えて、そして多くの人たちの賛同を得て、今の危ないこの日本の国をしっかりと平和の中で守っていきたいと思います。頑張っていきましょう」と宮下神父は結んだ。

 

次に、お題目九条の会会長の石黒友大氏は、「縁によって生ずる現代のありとあらゆる思想や経済や政治もまた、不可思議な心より生ずる実相(ありのままの姿)なのだと気付くまでの道のりが宗教であって、そのように生きる姿に、人は心を打たれ、理屈抜きに生命の尊さとありがたさを感ずるのであります。そのような精神的向上を今に顕現(けんげん)し、さらには後の人類にその醍醐味を味わっていただくため、世界平和建設の礎に微力ながら祈りを集結させようではありませんか。悪しき政治・悪しき経済・悪しき国家を、目前の宗教的信念によってすっぽりそのまま丸ごと包み込みましょう」と呼び掛けた。

「世界のいかなる宗教も生きるためのものであり、殺すためのものではありません。心自由に、心豊かに生きるための知恵の源であります。私たちは抗して結集し、悪しき戦争へ向かおうとする国政に対し、それぞれの宗教的かけがえのない救いをもって立ち向かおうとしております。その宗教的精神と信念、それは決して排他的独善ではなく、宗教的真理に基づいた、まさに大いなる寛容の精神であります」と石黒氏は語った。

「憲法9条はそれぞれの宗教の教義を超えた世界平和の実現に向けた神仏の計らいの賜物であり、願いであります。それは日本という世界に唯一、原爆という罪悪を経験した私たちが、世界の果ての果てまで届けなければならない、日本人の魂の祈りであります。私たちが行動と生き方によってその祈る姿を示さねばなりません」と石黒氏は訴えた。

「全ての生きとし生けるものは神の子であり、そして仏の子であるという自覚の下に、安倍総理をも包み込む、愛深き、慈悲深き精神が本当にわが心に備わっているのかと問い続ける謙虚な生き方と祈りにこそ、この今に世界平和とその姿は顕現するのであります。今こそ一同に、わが心と生き方に懺悔の誠を尽くし、己の心の内と外に住む神と仏に平和の祈りをささげまつることを誓います」と石黒氏は結んだ。続きはこちら>>

~~~~~~~~

♫ 宗教家もこうして、立ち上がってくれました。

目覚めよ、宗教家たち!!!

本物の宗教家なら、戦争反対に決まっているんです。

国民とともに、あれ!!!

 

 


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アサンジ氏 グーグルはヒラリー・クリントンの選挙戦を支援しているとして非難<>

2016-06-08 14:24:34 | 社会問題 日々雑感

2016年06月07日 23:49スプートニク日本より転載

内部告発サイト「ウィキリークス(WikiLeaks)」の創設者ジュリアン・アサンジ氏は、自分達の排他的考えを推し進める米国の努力、そしてヒラリー・クリントン氏の選挙戦を支援しているとしてグーグルのキャンペーンを非難した。これはアサンジ氏が、7日、モスクワでの国際メディアフォーラム「ジャーナリズムの新しい時代:メインストリーム(主流)よさらば」の中で述べたもの。

アサンジ氏は、フォーラムで「グーグルは、ホワイトハウスと協同作戦を行い、民主党の大統領候補であるクリントン氏を支援している」と指摘し、次のように発言した-

 

「グーグルは、ヒラリー・クリントン氏のキャンペーンに直接参加している。これは彼らがかつて、自分達の目的のために国務省を利用した、その見返りにである。

グーグルは、インターネットにおける情報の流れをコントロールすることができる。」



続きを読む http://jp.sputniknews.com/life/20160607/2266715.html#ixzz4Axijnq3S


~~~~~~~~~~~~~

♫このアサンジ氏の発言は、アメリカ人はどう受け止めるでしょうか?

民主主義は、すでに先進国にはないようです。日本もすでに選挙も操作されています。

アメリカも同じです。

コメント (1)
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天皇まんざーい 原爆からアトムへそして平和利用の原子力へ <>

2016-06-08 14:01:05 | 天皇まんざーい

http://sci-tech.jugem.jp/?day=20090902 より転載しました

科学技術のアネクドート

 
原爆肯定から平和・反核へ――長崎とアトム(16)
 
 

 
原子爆弾が投下された1945年から、少なくとも5年ほど、日本では原爆を意味する「アトム」が流行語になり、原子爆弾を好意的に受けとめるような風潮が、新聞報道を見るかぎり、ありました。
 
終戦直後、米国軍が長崎につくった飛行場を「アトミックフィールド」と名付け、長崎で行われたミスコンテストを「ミス原爆コンテスト」と呼んでいた事実があります。
 
米国軍が、これから支配する日本人に対して、原子爆弾投下への反発心を抑えたいという意図が働いたとすれば、爆心地に「アトム公園」というよび名がついたことも、その目的の一環なのかもしれません。「アトム公園」は必然的な結果であって、もはやこのよび名を驚きをもって受けとめる必要はなくなります。
 
戦争直後の原子爆弾を肯定する日本の風潮は、その後の原子力の平和利用への気運の高まりにも大きく寄与したことでしょう。
 
戦争を知らない世代には、原子爆弾で多くの家族や知人を失った街が、その直後、原子爆弾を好意的に受けとめていたという精神性が奇異に思える部分もあります。もちろん当時においても原子爆弾を憎み、否定した人も多かったことでしょうが、原子爆弾に対する憎しみさえ萎えさせるほど、原子爆弾は破壊的なものだったのか、と。
 
しかし、原爆肯定が続いたわけではありません。1949年に長崎市が爆心地に「國際平和公園」を称しました。平和への願いは徐々に強くなっていきます。遅れて1954年には、第1回原水爆禁止世界大会が開かれるなど、日本でも反核の思想が芽生えてきます。
 
ここに、人間は本来的には平和を求めているという救いを求められるのかもしれません。
 
戦争直後の日本は、いまよりはるかに情報流通量の少ない時期でした。戦争直後、長崎という日本の一地域から発信されていた新聞記事が「プランゲ文庫」に収蔵されていることは、戦争直後の日本人の精神性を探るうえで貴重な存在でもあります。
 
戦争のことを考える機会の多い8月は終わりました。でも、あともう少しだけ、つづく。
 
 

 
科学技術のアネクドートでは、今年2009年夏に「長崎とアトム」というテーマの記事をこれまで16回にわたって連載しました。
 
原子爆弾が投下された“爆心地”に、終戦直後の一時期「アトム公園」というよび名がついていたという史実をもとに、当時の長崎市民や米国軍の精神性に迫りました。
 
長崎の爆心地は、「アトム公園」とよばれた1940年代後半の時期を経たのち、原爆の実相を伝え、世界平和と文化交流をはかる目的の「平和公園」として整備されました。1951年のことです。
 
爆心地をアトム公園とよび、その土地を平和公園とよびなおしたのは、原子爆弾の犠牲から免れ、生き残った人たちです。犠牲になった人々は、長崎の復興を向こうの世界から見届けていたのでしょう。
 
死没した人たちに、当時の長崎の様子を聞くことはできません。しかし、その “声なき声”に、心を寄せることはできるのかもしれません。
 
長崎の爆心地から歩いて5分ほど、小高い丘の上に「国立長崎市原爆死没者追悼平和祈念館」という施設があります。原爆関連の公共施設というと、長崎原爆資料館がよく知られていますが、平和祈念館は原爆資料館のとなりにあります。
 
平和祈念館は、原子爆弾により亡くなった人たちの犠牲を銘記し、恒久平和を祈念する目的でつくられた施設。2003年7月に開館しました。
 
地下の入口へと通じる地上の回廊の内側には豊富な水がはられています。原子爆弾投下直後、長崎や広島の人々は水を求めながら倒れていきました。この水には、人々に水を賜う意味が込められているといいます。
 
 
地下の館内には追悼空間があります。追悼空間には12本の光を発する柱が立っており、原爆死没者の名前が記された150冊、14万9266人分の名簿がおさめられています(2009年8月9日現在)。
 
原子爆弾の投下は、人々の命だけでなく、顔、表情、体つき、その人がその人である証拠をも奪いました。ほとんどの遺族は、亡くなった家族の遺体を見つけることができませんでした。
 
しかし、名前と記憶は原子爆弾によっても消し去られません。長崎と広島の原子爆弾投下時の状況を知っている遺族や市民たちは、この空間に立つたびに当時の記憶がよみがえるのでしょう。
 
追悼平和祈念館の役割は、「平和祈念・死没者追悼」だけではありません。
 
「被爆関連資料・情報の収集および利用」も役割のひとつ。被爆者の証言や、原子爆弾にまつわる詩を映像で見ることができます。これからも被爆者たちの体験談を収集していくことでしょう。
 
また、「国際協力および交流」も役割のひとつ。資料や館の案内を世界各国語に翻訳して情報提供をしたり、原子爆弾に対する価値観が日本とは異なる米国や欧州などで、日本発の企画展やシンポジウムを開くなどして国際交流をはかっています。
 
祈念館の職員・伊奈俊信さんは「被爆者の子どもにあたる“被爆2世”もいまでは50歳から60歳台。そうした方々に、親が生きていた時代とはどういったものだったのかを知っていただきたいし、お祈りもしていただければ」と話します。
 
時は流れていくもの。被爆2世が50歳から60歳台なのですから、長崎・広島で被爆を経験した方々の高齢化ももちろん進んでいます。直接的な証言を得られる時間は長くは残っていません。原子爆弾の投下直後の様子を伝える証言にくらべて、都市がすこしずつ機能を回復し、復興へと向かっていく時期の様子を示す証言は、さほど収集が進んでいないといいます。
 
被爆、混乱、占領、復興、平和。断片的に語られることの多いこれらの過程が一つにつながったとき、新たな価値が生まれてくるのかもしれません。
 
長崎は原子爆弾投下から65年目の新たな年を迎えようとしています。(了)
 
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館のホームページはこちら。
 
 ~~~~~~~~~~~~~
♫ 原爆の被爆者が少なくなってきています。やがて一人もいない時代がやってきます。私達はこの事実を後世に伝える役目を担っていると思います。
 
被爆者とその周りの人達、そして今現在住んでいる人達も、この歴史の真実を知るべきなのです。
日本人は、この事実をしり、子供や孫にも伝えないとならないのです。
 
私達が、戦争は嫌だ。と言わなければ、子供や孫はこの記事以上に苦しめられるのですから。
 
私達日本人は、目を覚まして、辛くても前を向いて、この国の真実から目をそむけない勇気をもつことです。正しい歴史を忘れてはいけないのです。
 
この長崎とアトムを書かれた人は、新聞記事を読んで考察をしてくれていますが、実にピントがあっていると、私は思いました。
 
天皇がこの原爆の特許者であるのなら、この長崎の原爆も、地上での爆発の可能性すらあるのです。当時の飛行機に搭載は無理だと言う説もあり、起爆の技術はニホンしかなかったという、話もあります。
地上でもしも行われたとするのなら、この爆心地が三菱の土地になっていたのも、うなずけますし、
こうしたことは、状況証拠になると思います。
 
すぐには気が動転して、混乱してしまうかもしれません。気長にこの話を検索して読んで見てください。
そして、アメリカの特許局が特許取得者の公表をしてくれることを、強く希望します。
日本人には、その権利があると思います。
 
 
 
 

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天皇まんざーい アトムは偉大な人気者 <>

2016-06-08 13:33:19 | 天皇まんざーい

http://sci-tech.jugem.jp/?day=20090812 より転載しました

 

科学技術のアネクドート

 

 

「アトム」は「偉大」な「人気者」――長崎とアトム(13)



1945年8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされ、日本は敗戦を喫しました。
 
それまで、日本で「原子爆弾」のことを知る人は、一握りの科学者や軍人をのぞけば、ほぼ皆無だったはずです。そうした状況のなか、原子爆弾は突然、二つの都市に落とされ、何もかもを消し去りました。
 
原子爆弾は、多数の人々の命を奪いました。当時の広島や長崎の市民は、平和への祈念が強いいっぽうで、その原子爆弾に対して畏敬の念を抱いていたことを読みとれる記述を見つけることができます。
 
1948(昭和23)年8月9日、長崎市で発せられた「平和宣言」では「アトム長崎を再び繰り返すなと絶叫することによって、恒久的平和は確立するものと信じて疑わぬ」と、負の遺産として「アトム」という言葉を使いつつ、平和を訴えています。
 
いっぽうで、長崎日日の1949(昭和24)年7月21日付の紙面には「音盤にのるアトム長崎 新長崎文化音頭 記念祭に披露」という見出しの記事で、当時の長崎でつくられた音頭が紹介されています。
 
「アトムネー、アトム・ナガサキ茜の空に……」
 
「アトム」という言葉を歌詞に使った音頭がつくられていたということから、少なくとも長崎市では「アトム」ということばが流行語として市民に浸透していたということがわかります。
 
「アトム」が流行していたのは、長崎市においてのみではなかったようです。南日本新聞の1947年2月10日付にある「豆知識」という記事を見てみます。
 
南日本新聞は、いまも鹿児島県内で発行されている地方紙。当時は「鹿児島日報」から「南日本新聞」に紙名をかえて間もないころでした。「豆知識」には、当時の日本人が「アトム」をどのように捉えていたかを示す、きわめて端的な記述が見られます。
 
―――――
アトムはすでに日本語になつている、物質の最後の単位を原子としたのは過去の科学、今日ではその構造が電子、陽子、中性子であることは常識である、この電子と中性子を使つで偉大なアトミツク・ボーム(原子爆弾)が現出した、今日の科学の最も華々しい舞台である原子物理学はすべて原子の内部の究明に研究対象がおかれている
 
新聞や雑誌の雑筆欄に『アトム』というのがあるが『原子爆弾的な』というしやれだろう、アトムが人氣ものになつてからこれらが動詞にも使われるようになりアトマイズ、直訳して原子爆弾攻撃を加えることであり、もちろん廣島が爆撃されてから使われた新語である
―――――
 
この記事からはつぎの二つのことを推しはかることができます。
 
ひとつは、少なくとも報道者には、原子爆弾に対する怒りや憎しみといったものがほぼ感じられず、むしろ賞讃の対象として捉えられている点です。何のためらいもなく「アトム」を「偉大」で「人気者」と解説しています。
 
もうひとつは、爆心地の長崎や広島だけでなく、日本で広く「アトム」という言葉が好意的な流行語として使われていた可能性があるということです。長崎を含む九州で「アトム」が流行したということも考えられますが、鹿児島で発行されている南日本新聞にこうした解説があるという点から「アトム」の流行を察することができます。つづく。

原子力利用推進の芽――長崎とアトム(14)

 
 
戦後、日本は、“平和利用”という名のもとで、原子力利用を推進する道をひた走りました。そして、行政やマス媒体などが主導したこの道に国民は従順にも従いました。
 
1955年の新聞週間の標語は「新聞は世界平和の原子力」。この時点でも「原子力」という言葉が、好意的に使われていたことを
うかがわせます。
 
また、1979年の時点でも、国民の6割強が原子力の利用には賛成していたという新聞世論調査もあります。
 
子ども時代を戦争の中で過ごした、ある科学ジャーナリストはこう話します。
 
「唯一の原爆被害者となった日本国民は、原子力の利用を不幸とは考えなかった。科学技術を軍事に使えばたいへんな悪になる。けれども、人類のために使えばプラスになると多くの人は考えた」
 
こうした風潮を後押しするもうひとつの要因が、終戦後占領軍として駐留していた米国軍の存在だったのかもしれません。すくなくとも、米国軍が「原子爆弾」や「原子」、「アトム」に対して好意的であったことに疑いの余地はありません。
 
原子爆弾の投下から60年を迎えようとする2005年7月31日、産經新聞がスクープ記事を報じました。
 
 
「占領軍主導『ミス原爆』 被爆後9ヵ月長崎のミスコン」という見出しの記事です。ミスコンテストは占領軍長崎地方プレス班が主導し、毎日新聞、西日本新聞、長崎新聞の3紙が主催していたことがわかったといいます。各新聞社は「ミス長崎」と表現していたいっぽう、米国内ではミス長崎のことを「ミス原爆」とよんでいたと記事は伝えています。
 
このミスコンテストの結果を伝える毎日新聞1946年5月3日付の記事がプランゲ文庫には残されています。
 
―――――
“ミス長崎” 山村蓉子さん
晴のナンバーワンを選定する第三次“ミス長崎”の審査はメーデーの五月一日午後七時から市内寶塚ダンスホールで開いたが、この日第一次審査にパスした山村蓉子さん(十九)下永好子さん(二〇)第二次審査に入選した吉田信子さん(十九)小坂富美子さん(廿一)の四女が出場したが、結局本社推薦応募の山村蓉子さんが見事入選“ミス長崎”の栄冠を勝ち得た、第二位は小坂さん、第三位下永さん、第四位吉田さんと選定されたが、ナンバーワンの山村さんには蒔絵手箱(香水入)はじめ岡政、濱屋百貨店寄贈の商品十点が授典され次の小坂さんほか三名にも数々の商品が贈呈された
―――――
 
やはり「ミス原爆」の表現は一切なく、「ミス長崎」としています。さらにこのミスコンテストをめぐる記述として、米国人と日本人のものから二つ、紹介することができます。つづく。
 
 
「メリケン等の投點票にあらはれし……」――長崎とアトム(15)



敗戦から間もない1946年5月の長崎で、占領軍主導のもと行われた「ミス長崎」のミスコンテストは、米国で別名「ミス原爆」のコンテストとよばれていました。
 
このミスコンテストについて、当時の新聞記事のほかに、いくつかの記述が米国と日本の双方から見られます。
 
ひとつは、米国の有名な歴史家ジョン・ダワーが『敗北を抱きしめて』のなかで、「ミス原爆」を選ぶコンテストが行われたころの長崎の状況を描写しています。
 
―――――
原爆が投下された長崎においてさえ、住民は最初に到着したアメリカ人たちに贈り物を準備し、彼らを歓迎したのである(贈り物はガラス・ケース入りの人形で、放射能の影響を調査に来たアメリカの科学チームの責任者に贈られた)。またそのすぐ後にも住民たちは、駐留するアメリカ占領軍とともに、「ミス原爆美人コンテスト」を開催したのである。
―――――
 
原爆投下直後の長崎市民が、占領のためやってきた米国人に対して、非常に好意的だったことの例として、「ミス原爆」のコンテストの存在を示しています。
 
ここから「原子爆弾」や「アトム」を、ポジティブなイメージで喧伝しようとした米国軍と、それを受け入れる精神性をもっていた長崎市民あるいは日本人、という構図を想像したら、想像のしすぎでしょうか。
 
いっぽう、日本人のほうでも、このミスコンテストのことを表現した人物がいます。長崎市立博物館学芸員で、長崎県・長崎市文化財保護審議会委員、長崎国際文化協会副会長などをつとめた経歴のある島内八郎です。このミスコンテストの日本人審査委員をつとめていたらしく、「ミス長崎審査」という題名の短歌を『多磨』という雑誌の1949年9月号に3句、残しています。
 
―――――
極彩の和装の奥に桃色の鼓動高鳴りゐる乙女らか
 
六挺の算盤の音が集計を彈き出してやみし今の瞬間
 
メリケン等の投點票にあらはれし鑑賞眼の相違考へさせらるる
―――――
 
時系列に表現されたこれら句のうち、3句目からは、米国人と日本人の眼は、やはり違うものであるという島内の心の内が読みとれます。
 
ここまで見てきた、アトム公園、アトミックフィールド、アトム音頭、ミス原爆……。原子爆弾投下から64年のいま、「長崎とアトム」をどう捉えるべきなのでしょうか。つづく。
 
~~~~~~~~~~~~
♫ だんだん読んでいるうちに、なんだか胸が苦しくなってきませんか?
もしも、そうなら、休んでくださいね。
この記事は、事実を丹念に追いかけてくれた大切な記事ですから。
読み進むと、苦しくなってきます。
 
特別な話ではなく、日本人の操作された姿が浮かび上がってくるからです。
戦後間もなく、このようにして、日本人はコントロールされていたのです。
そして、なんとお人よしなことか。
ですから、読むと苦しくなるのです。
この記事は、現在のニホンも同じことが言えるのです。過去の話しではありません。現在も続行中です。
 
 
 

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天皇まんざーい わずか4年で原爆公園からアトム公園そして平和公園<>

2016-06-08 13:16:39 | 天皇まんざーい

http://sci-tech.jugem.jp/?day=20090728 より転載しました

科学技術のアネクドート

 
市民がつくった公園の新しい呼び名――長崎とアトム(10)


爆心地に設けられた公園は、一時期「アトム公園」という名前が付けられていました。その後、この公園は1949年制定の「長崎国際文化都市建設法」により「國際平和公園」というよび方がつけられたのでした。
 
「國際平和公園」は、長崎市民からの公募により決まったものです。1949年8月10日の毎日新聞長崎版と長崎民友の記事は、このよび方が生まれるまでのいきさつを伝えています。
 
毎日新聞長崎版1949年8月10日
―――
長崎原爆四周年 復興の決意新た 文化都市建設を宣言 きのう盛大な記念式典
爆心地公園を九日から国際平和公園と改称する発表と名称募集の当選者への賞品授与式があり、かくて大橋市長は国際文化都市建設の宣言を行い、永井博士令嬢茅乃さん(九つ)の手で平和の鳩が放たれ、五色のテープの尾をひいてはとは空高く舞上がり、正午盛大な記念式典の幕を閉じた。
―――
 
長崎民友1949年8月10日
―――
平和の誓い・文化祭の幕開く 月光浴びて盆踊り 爆心地に集う二万余名
続いて長崎民事部長バグーハイム大佐、マツカーサー元帥、ローマ教王使節のメツセージ傅達、吉田首相、衆議院幣原議長、参議院松平議長をはじめ文部、安本など各大臣の祝辞、また杉田知事、脇川商議会頭、岡本縣議会議長などからも祝辞がのべられ、松山爆心地を「國際平和公園」と命名、名称募集入選者には賞状並びに賞金が贈られたのち、大橋長崎市長は力強い句謂で「宣言」を朗読、永井博士令嬢茅乃ちやんの放つ五色のテープをなびかせた平和の鳩は満場の拍手の中に大空高く、舞上がつた。
―――
 
このように、1949年8月9日、爆心地を含む「國際平和公園」は、市民からの公募によりつけられたのでした。
 
どのような形で公募が行われ、長崎市民のだれがどのような経緯で「國際平和公園」と名づけたのか、記事からは「名称募集の当選者」としか示されていません。
 
長崎民友の記事に見られる「永井博士」とは、長崎市で活躍し、みずから被爆を負った医師・永井隆のことです。原子爆弾投下の直前、永井は放射線研究による被爆で白血病と診断されていました。
 
そして、原子爆弾の投下。長崎医科大学の診察室にいた永井は、爆風を受け、右側頭動脈切断という瀕死の重傷を負います。それでも、頭に布をあてがうのみで、被爆者の治療に従事しました。
 
その後、病床に伏しながら、1949年5月には天皇陛下と面会。8月1日には長崎市長から表彰を受けます。永井は、長崎市民にとって被爆者の象徴であるとともに、生きる灯火の象徴でもありました。1951(昭和26)年5月、享年43歳でこの世を去ります。
 
プランゲ文庫に収蔵されている記事は、1946年から1949年まで。よって原子爆弾が投下された「8月9日」をめぐる新聞記事はこれで以上となります。
 
その後、爆心地の公園は1951(昭和26)年、続行された長崎国際文化都市計画のなかで建設大臣の承認を受け、その後4年にわたる復興土地区画整備事業による整備ののち1955(昭和30)年に「平和公園」として、改めて開園したのでした。つづく。
 
 
 
アトム公園に断食男――長崎とアトム(11)

 
 
爆心地に成立した公園について、変遷をまとてみます。
 
1945(昭和20)年8月9日まで、高見和平の別荘の敷地だった。
1945(昭和20)年8月9日から1947(昭和22)年は公園としての認識がなかった。
1948(昭和23)年、公園が開園し「アトム公園」「原爆公園」と呼ばれた。
1949(昭和24)年8月9日、新名称が公募され「国際平和公園」となった。
1951(昭和26)年、長崎国際文化都市建設計画の中で「平和公園」として建設大臣の承認を受けた。
1955(昭和30)年8月、「平和公園」が開園した。
 
このうち、戦争直後の長崎市民や国民の精神性を探るうえで注目すべきは、やはり「アトム公園」というよび方でしょう。「国際平和公園」は、都市計画のなかで募集と応募の末に決まるという公的な過程を踏みました。
 
いっぽう「アトム公園」には、当時の新聞を見るかぎりは公的に決められた跡はうかがえません。“名称”というよりは“愛称”という性格が強いものと考えられます。「アトム公園」というよばれ方から、当時の長崎市民の心的状況を探れるのではないでしょうか。
 
1946(昭和21)年から1949(昭和24)年にかけて長崎市で読まれていた新聞記事をプランゲ文庫で調べてみると、これまで紹介した1948年8月の長崎民友の記事のほかに、もう2点、「アトム公園」のよび方が載っている記事が見つかりました。
 
一つは、長崎民友の1949年5月7日付けの「長崎市に原爆資料館 松山町のアトム公園に」という見出しの記事です。
 

―――
長崎市原爆資料保存委員会は、六日午後二時から委員会を開いて協議した結果、市内松山町アトム公園に原爆資料陳列館を建設することになつた
―――
 
この「原爆資料館」は、いまの長崎原爆資料館の前身の前身にあたるもので、1949年に開館しました。その後、原爆資料館は1955(昭和30)年に国際文化会館内に移設され、さらに1996(平成8)年に長崎市平野町に移転しています。
 
もう一つは、同じく長崎民友の1949年8月4日付の「アトム公園に斷食男 みちやおれん! 浮世浄化論を一くさり」という見出しの記事です。
 
―――
國際文化都市長崎の青年男女の行動は見るにしのびない、自覚するまで俺は死の断食をする!と長崎市アトム公園のど真中に頑張り続けている、断食男がある
いつから断食をはじめたか
「七月一日から始めたがあまりあついのでテントを取りに帰り八月一日からやり直している、今度は死ぬまでやるつもりだ」
胸を張り目をみはつて怪気焔をあげていたが急に声を落して
「でもなるべくなら死なん方が良い、たれか私の意思をうちついでくれる青年があつたら止めるつもりだ」
―――
 
「怪気焔」というのは、調子がよすぎて信じがたい盛んな意気のことをいいます。
 
記事の内容そのものは“街ねた”に近い内容ですが、この記事が8月4日のものであるという点は意味がありそうです。國際文化都市を発足する記念式典が行われるのが、この5日後。式典が迫る時期に、公園に断食男が居座っていたことを考えると、式典への警備などもゆるやかなものだったことがうかがえます。
 
どのような経緯で「アトム公園」のよび方が現れたのでしょうか。つづく。
 
 

 

 
爆心地の横に飛行場「アトミック・フィールド」――長崎とアトム(12)
 
 
長崎市浦上の爆心地に1948年ごろから1949年にかけてよばれた「アトム公園」は、どのような経緯で名づけられたのでしょうか。
 
当時の新聞などが収蔵されているプランゲ文庫のほかにも、終戦直後の長崎の状況を物語る資料や証言がいろいろあります。
 
それらをまとめてみると、戦後まもなく長崎に進駐してきた米軍の影響がやはり大きかったということが見えてきます。
 
日本の敗戦から1か月半後の1945(昭和20)年9月30日から10月11日、米国の占領軍1298大隊は、長崎市内に簡易飛行場を建設しました。爆心地から西へ進むと、長崎本線の線路にぶつかりますが、これを越えた現在の陸上競技場や市民総合プールなどがある松山町2丁目あたりは、かつて駒場町とよばれ、戦前・戦中には長崎酸素という企業があった地域でした。“原子野”となったこの地に、米軍の飛行機が離着陸するようになったのです。
 
この簡易飛行場は、記録写真家のジョー・オダネル(1922-2007)によって撮影されています。を見ると、瓦礫のなかに立つ1本の柱。掲げられた横長の白い板には、角ばった書体でこう書かれています。
 
「ATOMIC FIELD」
 
そして、写真が収蔵されている写真集『Japan 1945』には、つぎのような解説文が書かれてあります。
 

ジョー・オダネル『Japan 1945』
 
「アトミック・フィールドは、長崎の米海軍滑走路に名づけられた、皮肉が込められた名前である」
 
日本国内の資料にも、この簡易飛行場が建設されたときの様子を描いた記録があります。地元の老舗百貨店「濱屋」が1960(昭和35)年に出版した社史『濱屋百貨店二十年史』には、次のように書かれています。
 
「原子爆弾の中心被害地である浦上には飛行場がたちまちのあいだにできあがって『原子飛行場』と命名され、小型機が発着した」
 
また、毎日新聞西部本社がまとめた『激動二十年 長崎県の戦後史』という本には、次のような説明が見られます。
 
「浦上の爆心地に乗り込んだ別働隊は、松山の焼け跡(現三菱グラウンド付近)に、わずか三日間で長さ千五百メートル、幅百五十メートルの簡易飛行場を建設した。名づけてアトミック・フィールド(原子爆弾飛行場)。完成と同時にLH連絡機があわただしく離着陸を始めた」
 
1945年の終戦直後、「アトミック・フィールド」という、「アトム」に関連するよび名の簡易飛行場が建設されていたのです。
 
爆心地のすぐ脇にあるという位置関係からしても、「アトム公園」というよび方には、このアトミック・フィールドの存在が関わっていたということが想像できます。踏みこんで推測すれば、飛行場がアトミック・フィールドとよばれていたことに触発され、その近くの爆心地公園にはアトム公園というよび名が付けられたということが考えられます。
 
しかし、「アトミック・フィールド」を米軍が名づけたことは想像できても、「アトム公園」を誰が名づけたかを探るには資料が足りません。これも米軍によるものなのか、長崎民友の新聞記者によるものなのか、長崎市民の自発的なものなのか。
 
あるいは、“当時の気運”が「アトム公園」のよび名をつけたのかもしれません。爆心地が「アトム公園」とよばれるようになった経緯を探るためには、より広い視野で当時の状況を見る必要があります。つづく。
 
~~~~~~~~~~~~
♫ 永井隆医師について、書かれているのですが、これだけでは、まだわかりませんが、何か私は不可解なものを、感じます。
原爆の日よりも以前に、研究により被爆していたこと。そしてなによりも、天皇陛下に面会をしています。これは、かなり意味深な感じがします。
そして、永井隆氏は、本も出しており、かなり有名な医師です。なにかありそうです。
 
原爆公園からアトム公園などと呼ばれそして平和公園と呼ばれるようになるまで、策略があったと
考えざるをえないですね。
 
原爆より、アトムといったほうが、何か別のもののように、考えることが出来てしまうからです。
 
 
 
 
 
 

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天皇まんざーい 長崎爆心地に矢印が建てられた<>

2016-06-08 12:28:51 | 天皇まんざーい

http://sci-tech.jugem.jp/?day=20090728 より転載しました

科学技術のアネクドート

 
爆心地に突き刺さる“矢印”――長崎とアトム(7)

 

 
原爆投下から2年後、1947年8月9日の周辺の毎日新聞長崎版を見ても、爆心地が“公園”として認識されていることを示す記述は見あたりません。
 
ただし、翌10日付の記事には、浦上天主堂での追悼ミサの模様を写した写真の下に、市民が頭を下げて黙祷を捧げている写真が掲載されています。
 
この写真でまず目に飛び込むのは「原子爆彈中心地」と記された大きな標識です。すぐ右横に立っている少年や青年の身長からすると、この標識は6、7メートルほどの大きなものだったようです。
 
この標識の形は、弓矢の矢印(下の画像)を意識したものでしょう。空から落ちていたものが、大地に突き刺さったというような意味を連想させるかたちです。このかたちからは、原子爆弾の投下により多数の犠牲者が出たという追悼的な意味は読みとれず、ここに原子爆弾が落とされたという機能的な意味があるようです。
 
 
また、矢印形の標識のすぐ右、少年の足元には、小さな石碑のようなものが立てられています。標識と石碑のようなものの大きさのちがいからいって、まずこの小さな石碑のようなものが爆心地の目印として置かれ、その後、矢印形の大きな標識が立てられたのが順番だと推測されます。
 
写真にはキャプションがあります。「(下)十一時五分原爆中心地で黙祷を捧げる児童たち(長崎-門司ハト便)」。
 
当時、毎日新聞の西部支社は、福岡県門司市(いまの北九州市門司区)にありました。九州の各地から門司支社にフイルムなどを送るため、伝書鳩が主要な手段のひとつとして使われていたことがわかります。
 
翌1948年、爆心地付近を示す呼称に、大きな展開が見られます。つづく。
 
 
爆心地に付けられた「アトム公園」――長崎とアトム(8)


プランゲ文庫に収蔵されている長崎関連の新聞は、1948年になると毎日新聞長崎版だけでなく、長崎長崎民友や長崎日日なども見られるようになります。
 
1948年8月8日付の長崎民友2面には「祈りもあらた」という見出しのもと写真が掲載されています(上の画像)。爆心地に白い墓碑が建っている写真です。前年の矢印形の標識から改められたのでしょう。
 
ここには、翌日の原爆3周年を迎えるにあたり、次のような行事予定が記されています。
 
―――
△松山町アトム公園で午前十一時から開園式をかねた文化祭の式典をあげ、午後二時から輿霊祭を行う。
―――
 
ここにきて初めて、爆心地付近に呼び方が付いていることがわかりました。その呼び方とは「アトム公園」。
 
原爆投下3周年の行事を行った翌日8月10日付の長崎民友(下の画像)にも、爆心地付近の呼び方を記す記事が見られます(下の画像)。
 
 
―――
この日午前七時から長崎カトリツク教區一千余名のけいけんな追悼ミサが行われ、午前十一時からは爆心地浦上アトム公園□盛大□式典□幕をあけ、十一時二分打ち鳴らす平和の鐘の響きは、黙想をささげる市民の上に流れ、續□て大橋市長の挨拶□移り「世界の希望する文化長崎の実現を期す」との強□決意で語られ、マツクアーサー元帥□らのメツセージを伊藤長崎市助役代讀
(□は判読不能)
―――
 
同じ記事では、「写眞は文化祭典―爆心地アトム公園で」というキャプションのもと、テントの下で追悼する市民の様子が写されています。屋外には日傘をさす女性の姿も。
 
この長崎民友の1948年8月8日と8月10日の記事からは、1948年に入り、初めて爆心地の松山町が公園として認識されたこと、そしてその公園の呼び方として「アトム公園」が使われていたことがわかります。
 
多数の犠牲者を出すことになった原子爆弾が落とされた爆心地が「アトム公園」と呼ばれるようになったことの意味については、また回を改めて検証します。
 
この爆心地につけられた名前については、ほかの呼ばれ方もあったことが、プランゲ文庫からは読みとれます。
 
プランゲ文庫の記事項目を検索できる占領期新聞・雑誌情報データベースで検索すると、「原爆公園(Atomic Bomb)」という項目が見つかります。これは、新聞記事の見出しではなく、詩の名前。修学旅行で長崎を訪れたと思われる山口県山口高校の生徒が、爆心地公園の様子を詩にしています。縣立山口高等學校文藝部が出す『椹水』という雑誌の1948年10月20日発行分に収められています。
 
―――
○原爆公園
(Atomic Bomb Centre)
悪夢の様な戦争を終結にみちびいれ
二發目の原子爆弾の落下点、
思ひ出をとゞめる如く草うえ木うえ
白い記念碑は立てられそしてその側に
松山町一七〇番地、この地上約一五〇〇米
―――
 
「この地上約一五〇〇米」とありますが、原子爆弾が炸裂したのは地上500メートルとされています。
 
「原爆公園」の呼びかたは、1949年5月の毎日新聞長崎版でも、「原子爆彈落下中心地之標」の周辺でつるはしをもって土地をならしている市民の様子を示す写真のキャプションに「平和よみがえった原爆公園」と、見られます。
 
原子爆弾が落とされた、松山町171番地には「アトム公園」と「原爆公園」という呼びかたが付けられたのでした。つづく。
 
 
国際文化都市宣言と國際平和公園――長崎とアトム(9)


 
長崎の原子爆弾投下の爆心地は、1948(昭和23)年になり「アトム公園」または「原爆公園」とよばれるようになったことが、当時の新聞からわかりました。
 
翌1949年、5月6日の毎日新聞長崎版には、「平和よみがえった原爆公園」という見出しの写真記事が載っています。
 
写真には「原子爆彈落下中心地之標」の周辺でつるはしをもって土地をならしている市民の様子。記事の見出しには、「平和都市へ猛運動 “遅れとるな廣島に 戰いのピリオッドは長崎だ”」とあります。長崎への原子爆弾投下が、戦争を終結に導いたという意味合いの濃い記事といえます。
 
この記事に「平和都市への猛運動」とあるのは、1949年8月9日の原子爆弾投下4周年に、長崎市が宣言することになる「国際文化都市」に向けての推進運動などを指すものでしょう。
 
長崎市のこの宣言は、「長崎国際文化都市建設法」という法律に基づいて行われたものです。法律の第一条には、「この法律は、国際文化の向上を図り、恒久平和の理想を達成するため、長崎市を国際文化都市として建設することを目的とする」とあります。
 
国際文化都市の建設を目指していた長崎市は、国にはたらきかけをするなどして、この法律の制定を実現しました。1949年7月7日に長崎市で行われた住民投票では73%の投票率で、98%以上が法律に対して賛成を投じました。市民も“信任”を与えたかたちです。
 
いっぽう、広島市についてもおなじような過程を経て「広島平和記念都市建設法」が成立しています。広島市の住民投票は投票率65%、賛成は91%ほどだったといいます。両市は、投票率の高さをめぐって激しく対抗意識を燃やしていたようです。
 
長崎や広島が平和の象徴として明確に捉えられるようになったのは、このころからのようです。
 
1949年8月9日、長崎市で読まれていた新聞各紙は、国際文化都市発足を大きく報じています。さらには、爆心地の名称が変更されることも報じています。次の引用は、上から順に毎日新聞長崎版、長崎民友、長崎日日の8月9日の記事からのものです。
 
―――
文化都市宣言へ きよう長崎・原爆4周年式典
記念式典は午前十時から浦上國際平和公園(旧爆心地公園)で開かれ吉田首相その他各大臣祝辞、ローマ法王日本駐在使節のメッセージが市民におくられ、一方三菱精□、同製鋼等の工場や被爆地各学校などでは慰霊祭が催される。
―――
 
―――
國際文化都市きよう發足
この式典には、國際文化都市を祝してマツカーサー元帥、ローマ教□□長崎民事部長から喜びのメッセージが傅達されるほか、吉田首相、幣原衆院議長、安本大蔵など六大臣、知事その他の祝辞が送られ、爆心地の新名称「國際平和公園」の標託が新しい長崎の姿を象徴して建設される。
―――
 
―――
きよう新長崎の誕生日 世界に平和を誓う 午前十時爆心地で式典
きよう八月九日は新生長崎市が國際文化都市建設への輝かしい第一歩を踏出した記念すべき日。原爆による『火の洗礼』をうけたあの日から四年、文化祭記念式典は思出の原爆中心地『國際平和公園』で午前十時から開かれる。
―――
 
三つの記事から、爆心地には「國際平和公園」という名前があたえられたことがわかります。
 
この公園の名前は、市民の公募により決められたものでした。つづく。
 
~~~~~~~~~~~~
♫ 矢印を見て、なぜ?って思いますね。
空から爆弾が落ちてきたことを、これで表しているのですよ。当時の人はそう信じて、最近まで私もそう思っていました。
これは、国民のコントロールのひとつではないでしょうか?
 
そして、原爆が落とされたとする、爆心地が、原爆公園から、アトム公園と呼ばれたあたり、名前を変えることで、その後の原子力平和利用への道が、ここから始まったことが、わかりますね。
名前をつけるのに、なんと4周年でですよ。早いですね。被災した人達は、すでに置き去りの機運がうかがえます。
これも、国民のコントロールです。そして平和記念公園となって、人々の原爆への記憶が徐々に薄れて行くことを計算しているのです。これは70年先より、もっと100年以上も経てば、もっと人々から忘れられるからです。
 
日本人は辛いことが、起きると、忘れないようにではなくて、早く忘れたいと願うようです。早く元に戻りたいなど。それは悪いことではありませんが。支配者にとって、実に都合のよい奴隷国民です。コントロールしやすいのです。
 
 
 

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天皇まんざーい 長崎の原爆後「一億総ざんげ」の号令が出た<>

2016-06-08 12:14:01 | 天皇まんざーい

http://sci-tech.jugem.jp/?day=20090709 より転載しました

科学技術のアネクドート

 
新聞に原子爆弾の跡を見る――長崎とアトム(4)

 
1945年8月9日午前11時2分、長崎市松山町171番地(当時)に原子爆弾が落とされました。この場所は、その3日前に原子爆弾が落とされた広島市の相生橋東南(いまの原爆ドーム付近)とともに、世界史上ふたつしかない戦争における“爆心地”となりました。富豪の別荘地だったこの地は、その後、場所としての意味づけがまったく別のものになっていきます。
 
その変遷を追うための資料として有効なものが新聞です。
 
まずは、長崎に原子爆弾が投下されたことを戦時中の新聞がどのように伝えているか、その一報を見てみます。
 
朝日新聞は、戦前、戦中、戦後と、一貫して新聞の過去号が出版されており、大きな図書館などで閲覧することができます。1945年8月12日付の朝日新聞には、1面下段に「長崎にも新型爆彈」という記事が載っています。
 
―――
長崎にも新型爆彈
西部軍管區司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)
一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆彈らしきものを使用せり
二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込
―――
 
長崎の原子爆弾投下の第一報は、わずかこれだけのものでした。この記事の左側には、広島への原子爆弾投下を受けて「新型爆彈への對策」や「一瞬に廣島變貌」といった記事が載っていますが、それらに比べるとごく小さな扱われ方でした。
 
いっぽう、原爆投下からまもないころの長崎の様子をつぶさに見ることができるのは、長崎県に配布されていた複数の地方紙です。
 
1945年から1949年の占領期に米国軍から検閲を受けた出版物が眠っているメリーランド大学のプランゲ文庫には、原爆投下後まもないころの長崎市民が読んでいた新聞が収蔵されています。「毎日新聞長崎版」「長崎民友」「長崎日日」「長崎日日炭坑版」の4種類です。
 
長崎県の地方紙史をひもとくと、1889年9月の「長崎新報」の創刊にさかのぼることができます。ロシア戦争が起きた1911年、同紙は「長崎日日新聞」に解題します。
 
他に長崎県内では、「長崎民友」、「佐世保時事新聞」、「島原新聞」などの地方紙が立ち上がりましたが、長崎日日新聞を含め、これらの新聞社は1942年、太平洋戦争の戦時体制下で、いったん「長崎日報」という新聞に合併統合されます。
 
そして、原爆投下と敗戦を迎え、1946年12月9日に、合併統合されていた4紙は「長崎民友」「長崎日日」「佐世保時事新聞」「新島原新聞」に分離されました。長崎民友と長崎日日は、その後1959年に合併し、「長崎新聞」となり、いままで続いています。
 
こうした地方紙の流れとは別に、全国紙だった毎日新聞の長崎版も、プランゲ文庫には収蔵されています。
 
原子爆弾が投下された直後の長崎市の様子がわかる新聞記事は、残念ながらプランゲ文庫にも収蔵されていません。検閲が開始されたのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「言論および新聞の自由に関する覚書」を出した1945年9月10日以降となります。
 
しかし、1946年以降の長崎市民に配布された新聞紙には、爆心地の変遷や復興する長崎市民の様子などが克明に描かれています。つづく。
 
「長崎市民に告ぐ」――長崎とアトム(5)


 
原子爆弾投下から満1年の1946(昭和21)年8月9日、プランゲ文庫所蔵の長崎県で配達された新聞記事には、原子爆弾投下に関する記事は見当たりません。
 
しかし、当時の長崎市内の雰囲気を連想させる広告欄の記事があります。毎日新聞長崎版の1面最下段には、「占領軍歩兵第三十四聯隊長」の名のもと、「長崎市民に告ぐ」という広告が掲載されています。この広告はおもに、当時の長崎市に存在していた“不良團”に対して発せられた警告です。内容を見てみます。
 
ーーー
長崎市内には互に対抗する二つの不良團があり、團員は各々短刀と木劍を所持して闘争して居る。(中略)不幸にして逮捕の際無辜の市民も不良の一味と交際をしをりたる為に検挙されたることに就ては気の毒に思ふ。然し不良者と交際し居る者は誰でも嫌疑の眼で見られるは當然なり。犯意を有する連中は又米國軍の兵隊と交際する少女達を脅迫せり。(中略)尚寶塚ダンスホールで働きをる少女達も脅迫せられ其の一人は若い男に殴られ負傷せり。
ーーー
 
広告からは、二つの“不良團”が活動していたこととともに、「米國軍の兵隊と交際する少女達」がいたことがわかります。おそらく「交際する少女達」とは日本人女性のことでしょう。また「寶塚ダンスホール」という“社交の場”が、原爆投下後1年後にはすでに存在していたこともわかります。
 
前年、1945(昭和20)年、占領軍が長崎に進駐してくる直前には、長崎県や長崎市から「米軍が上陸する時、婦女子は避難していること」との通達があったといいます。「鬼畜米英」のイメージが強くあったのでしょう。
 
しかし、広告の「米國軍の兵隊と交際する少女達」や「寶塚ダンスホールで働きをる少女達」という記述を見ると、たった一年で、街の雰囲気は進駐軍により別のものになっていたことがわかります。つづく

科学技術のアネクドート

 
1946年8月9日、小倉でも黙祷――長崎とアトム(6)


 
「長崎市民に告ぐ」の公告が掲載された1946年8月9日は、長崎で原子爆弾が投下されて満1年でした。8月9日に発行された毎日新聞には「原爆から1周年」といった記事は見あたりません。
 
しかし、翌8月10日の新聞には「原爆投下から1周年の催しものが行われた」という記事が載っています。
 
1946年8月9日、長崎市は1周忌を迎えた犠牲者を悼むための「慰霊祭」を執り行ないました。翌10日の毎日新聞長崎版は、2面トップに「長崎にめぐり來し“あの日” 四万の靈に祈る 小倉市代表も参列」という見出しの記事を掲げました。
 
この記事には、慰霊祭が行われた場所や式の様子などが書かれています。
 
―――
原子爆弾の一閃に奪はれた四万三千の靈を弔ふ市主催戰災死歿者慰靈祭は爆心地松山町の一角に設けられた斎場で午前十時から遺族、官公衞、町内會、各會社、諸團体代表など多数参列、佛式により施行された
―――
 
慰霊祭の斎場は、爆心の街である松山町に置かれたようです。しかし、爆心地が“公園”として認識されているような記述は見当たりません。また、「爆心地松山町の一角」と書かれてあることから、この斎場は、爆心地そのものに置かれたものでないと考えてよいでしょう。
 
記事には、もう一つ、当時の日本の様子が見てとれる記述があります。
 
福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区・小倉南区)は、1946年8月9日の原子爆弾投下の、最初の標的になった街です。リチャード・ローズの『原子爆弾の誕生』という本などによると、小倉は悪天候だったこともあり、米軍戦闘機B29による原子爆弾投下を免れました。
 
小倉市の市長代理と市議会議長代理が、長崎市の慰霊祭に弔問に訪れています。これは、見出しに「小倉市代表も参列」とあるとおり、記事にもつぎのように書かれています。
 
―――
あの日に爆弾が落される豫定だったのが長崎市に變更されて危く被害を免れた小倉市から市長代理宮田収入役と市會議長代理の関谷副團長がわざわざ弔問して、懇な焼香を捧げた
―――
 
しかし、さらに注目すべきは、「小倉発」の「小倉で祈祷」という記事です。
 
―――
小倉でも默祷【小倉】
市民たちもこの日“反省の日”として原爆投下時刻の午前十一時には一斉にそれぞれの職場や各家庭で自分たちにかはつて散華した長崎市民の霊に黙祷をささげ冥福を祈った。
―――
 
記事は、小倉市民にとっての「この日」つまり8月9日は、「反省の日」でした。
 
終戦直後、8月17日に発足した東久邇宮内閣のもと発せられた「一億総懺悔」ということばがあります。国民すべてが、太平洋戦争で敗戦の責任をとるという国民統制のための合言葉のひとつです。「反省の日」「なには、この合言葉が色濃く反映されています。
 
翌1947年、原爆投下から2周年を報じる記事には、爆心地の様子がわかる写真が掲載されます。つづく。
 
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♫ この記事を書いてくださった方は、とても丹念に新聞から読み取って考察をしてくれています。
このことで、この記事が、いかに原爆だけではなく、戦争により国民の置かれている状況がわかってきます。まるで、昨日のことのようです。
小倉市では、なぜ「反省の日」なんでしょうね?
「一億総ざんげ」という言葉は、あべの言う「一億総活躍」にも通じますね。
 
このようにして、敗戦は国民が罪をしょい、支配者はのうのうとして、安泰に暮らすのです。
この策略がわかりますか?
 
私は、読むのが正直つらくなりました。
本当に日本人をこれほどまでにと、怒りと、涙が止まりません。
 
過去に、「人間の条件」などの残虐な日本兵を書いた本も読んできました。それでも、今回程ではありませんでした。私が目覚めたからです。
この記事を書いてくださった方は、真実を表に出して、広げてくれています。日本人はこの戦争のむごさを、もっと知るべきでしょう。
 
真実のニホンの国は、当時からして、このような操作が、当然のようにあったのです。 実にぬけめのない、支配者たちですね。
 
 

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離婚しない、女の決断 <>

2016-06-08 09:27:58 | 社会問題 日々雑感

女の決断

今回歌手の男性がW不倫だそうで、テレビ報道がにぎわっています。

夫の不倫が発覚しても、離婚しない女性がここ最近増えていますね。あの本を出している人も、議員も。

それは、不況も関係していると思いますが。

女性の気持ちを考えると次のようなタイプに分かれると 思います。

 

1) 自分の愛に自信があり、お人よし過ぎで、離婚すると子供がかわいそうだから、続ける

2) 離婚すると、今の暮らしが出来なくなるので、がまんする。

3) 夫に離婚しないことで、貸を作り、今後優位に立てると思っている。また離婚すれば、夫が相手と結婚できることになり、それを許すことができない。相手に報復する為にも離婚しない。

 

このようなことが、考えられます。

1)の人の場合、結局は自分が損をしても、子供を理由にしているのですが、家庭の中がギクシャクして、子供の精神状態を悪化させることが、わからない人。将来子供の為に離婚しなかったことで、子供にその付を負わせることになる。「あなたの為に離婚しなかったのよ」などと、言うはめになり、子供のこころを、更に痛めつける。自分の決心に子供を利用していることになる。

2)の人の場合、家庭の不和はすでに始まっているのに、更に、愛情もない家庭が保てるはずは、ありません。愛情がない、壊れた家庭をひきずることでも、平気な感覚を持ち続ける。将来的に夫の面倒をみるつもりもないので、その前に突然離婚をいいだす可能性もある。

3)の人の場合、このような女性と結婚した男性は、悲劇的な状態を送ります。多分一番最悪な人生となるでしょう。

「女をなめたら、いかんぜよ」という映画のセリフを思い出しますね。笑

日本女性は1)の人が圧倒的です。我慢強いですね。

(イタリアの女性は男性が不倫をするのは、あたりまえだと、思っているようです。我慢ではなく、そういうものだと、また男性は奥さんをとても大事にします。ここにヒントがありそうですね。)

私の知り合いの女性が面白おかしくいいます。

「離婚しないで、身体に悪い物を沢山食べさせたらいい。そのうち先に行くから」恐

男性は、もっと自分の食べ物を作ってくれる大事な人を忘れずに、愛してください。それが結婚を長く続けて、自分の将来の健康にもつながります。

離婚せずに別居を長くつづけても、男性は、ある日女性と暮らし始め、戸籍では養子などとする人もいるようです。

一度切れた糸は、結んでも切れやすい。結び目が固くなることは、紐の場合だけです。

自由に離婚できるのですから、躊躇することないです。

明るい人生を!

 

 

 


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