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天皇まんざーい 原爆からアトムへそして平和利用の原子力へ <>

2016-06-08 14:01:05 | 天皇まんざーい

http://sci-tech.jugem.jp/?day=20090902 より転載しました

科学技術のアネクドート

 
原爆肯定から平和・反核へ――長崎とアトム(16)
 
 

 
原子爆弾が投下された1945年から、少なくとも5年ほど、日本では原爆を意味する「アトム」が流行語になり、原子爆弾を好意的に受けとめるような風潮が、新聞報道を見るかぎり、ありました。
 
終戦直後、米国軍が長崎につくった飛行場を「アトミックフィールド」と名付け、長崎で行われたミスコンテストを「ミス原爆コンテスト」と呼んでいた事実があります。
 
米国軍が、これから支配する日本人に対して、原子爆弾投下への反発心を抑えたいという意図が働いたとすれば、爆心地に「アトム公園」というよび名がついたことも、その目的の一環なのかもしれません。「アトム公園」は必然的な結果であって、もはやこのよび名を驚きをもって受けとめる必要はなくなります。
 
戦争直後の原子爆弾を肯定する日本の風潮は、その後の原子力の平和利用への気運の高まりにも大きく寄与したことでしょう。
 
戦争を知らない世代には、原子爆弾で多くの家族や知人を失った街が、その直後、原子爆弾を好意的に受けとめていたという精神性が奇異に思える部分もあります。もちろん当時においても原子爆弾を憎み、否定した人も多かったことでしょうが、原子爆弾に対する憎しみさえ萎えさせるほど、原子爆弾は破壊的なものだったのか、と。
 
しかし、原爆肯定が続いたわけではありません。1949年に長崎市が爆心地に「國際平和公園」を称しました。平和への願いは徐々に強くなっていきます。遅れて1954年には、第1回原水爆禁止世界大会が開かれるなど、日本でも反核の思想が芽生えてきます。
 
ここに、人間は本来的には平和を求めているという救いを求められるのかもしれません。
 
戦争直後の日本は、いまよりはるかに情報流通量の少ない時期でした。戦争直後、長崎という日本の一地域から発信されていた新聞記事が「プランゲ文庫」に収蔵されていることは、戦争直後の日本人の精神性を探るうえで貴重な存在でもあります。
 
戦争のことを考える機会の多い8月は終わりました。でも、あともう少しだけ、つづく。
 
 

 
科学技術のアネクドートでは、今年2009年夏に「長崎とアトム」というテーマの記事をこれまで16回にわたって連載しました。
 
原子爆弾が投下された“爆心地”に、終戦直後の一時期「アトム公園」というよび名がついていたという史実をもとに、当時の長崎市民や米国軍の精神性に迫りました。
 
長崎の爆心地は、「アトム公園」とよばれた1940年代後半の時期を経たのち、原爆の実相を伝え、世界平和と文化交流をはかる目的の「平和公園」として整備されました。1951年のことです。
 
爆心地をアトム公園とよび、その土地を平和公園とよびなおしたのは、原子爆弾の犠牲から免れ、生き残った人たちです。犠牲になった人々は、長崎の復興を向こうの世界から見届けていたのでしょう。
 
死没した人たちに、当時の長崎の様子を聞くことはできません。しかし、その “声なき声”に、心を寄せることはできるのかもしれません。
 
長崎の爆心地から歩いて5分ほど、小高い丘の上に「国立長崎市原爆死没者追悼平和祈念館」という施設があります。原爆関連の公共施設というと、長崎原爆資料館がよく知られていますが、平和祈念館は原爆資料館のとなりにあります。
 
平和祈念館は、原子爆弾により亡くなった人たちの犠牲を銘記し、恒久平和を祈念する目的でつくられた施設。2003年7月に開館しました。
 
地下の入口へと通じる地上の回廊の内側には豊富な水がはられています。原子爆弾投下直後、長崎や広島の人々は水を求めながら倒れていきました。この水には、人々に水を賜う意味が込められているといいます。
 
 
地下の館内には追悼空間があります。追悼空間には12本の光を発する柱が立っており、原爆死没者の名前が記された150冊、14万9266人分の名簿がおさめられています(2009年8月9日現在)。
 
原子爆弾の投下は、人々の命だけでなく、顔、表情、体つき、その人がその人である証拠をも奪いました。ほとんどの遺族は、亡くなった家族の遺体を見つけることができませんでした。
 
しかし、名前と記憶は原子爆弾によっても消し去られません。長崎と広島の原子爆弾投下時の状況を知っている遺族や市民たちは、この空間に立つたびに当時の記憶がよみがえるのでしょう。
 
追悼平和祈念館の役割は、「平和祈念・死没者追悼」だけではありません。
 
「被爆関連資料・情報の収集および利用」も役割のひとつ。被爆者の証言や、原子爆弾にまつわる詩を映像で見ることができます。これからも被爆者たちの体験談を収集していくことでしょう。
 
また、「国際協力および交流」も役割のひとつ。資料や館の案内を世界各国語に翻訳して情報提供をしたり、原子爆弾に対する価値観が日本とは異なる米国や欧州などで、日本発の企画展やシンポジウムを開くなどして国際交流をはかっています。
 
祈念館の職員・伊奈俊信さんは「被爆者の子どもにあたる“被爆2世”もいまでは50歳から60歳台。そうした方々に、親が生きていた時代とはどういったものだったのかを知っていただきたいし、お祈りもしていただければ」と話します。
 
時は流れていくもの。被爆2世が50歳から60歳台なのですから、長崎・広島で被爆を経験した方々の高齢化ももちろん進んでいます。直接的な証言を得られる時間は長くは残っていません。原子爆弾の投下直後の様子を伝える証言にくらべて、都市がすこしずつ機能を回復し、復興へと向かっていく時期の様子を示す証言は、さほど収集が進んでいないといいます。
 
被爆、混乱、占領、復興、平和。断片的に語られることの多いこれらの過程が一つにつながったとき、新たな価値が生まれてくるのかもしれません。
 
長崎は原子爆弾投下から65年目の新たな年を迎えようとしています。(了)
 
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館のホームページはこちら。
 
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♫ 原爆の被爆者が少なくなってきています。やがて一人もいない時代がやってきます。私達はこの事実を後世に伝える役目を担っていると思います。
 
被爆者とその周りの人達、そして今現在住んでいる人達も、この歴史の真実を知るべきなのです。
日本人は、この事実をしり、子供や孫にも伝えないとならないのです。
 
私達が、戦争は嫌だ。と言わなければ、子供や孫はこの記事以上に苦しめられるのですから。
 
私達日本人は、目を覚まして、辛くても前を向いて、この国の真実から目をそむけない勇気をもつことです。正しい歴史を忘れてはいけないのです。
 
この長崎とアトムを書かれた人は、新聞記事を読んで考察をしてくれていますが、実にピントがあっていると、私は思いました。
 
天皇がこの原爆の特許者であるのなら、この長崎の原爆も、地上での爆発の可能性すらあるのです。当時の飛行機に搭載は無理だと言う説もあり、起爆の技術はニホンしかなかったという、話もあります。
地上でもしも行われたとするのなら、この爆心地が三菱の土地になっていたのも、うなずけますし、
こうしたことは、状況証拠になると思います。
 
すぐには気が動転して、混乱してしまうかもしれません。気長にこの話を検索して読んで見てください。
そして、アメリカの特許局が特許取得者の公表をしてくれることを、強く希望します。
日本人には、その権利があると思います。
 
 
 
 
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