アイリス あいりす 

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日本で米軍のレイプにあったオーストラリア女性に聞く<>

2016-06-25 13:01:38 | 社会問題 日々雑感

 

今年5月20日、日本の警察は32歳の米海兵ケンネット・フランクリンを逮捕。フランクリンには島袋里奈さん(20)の殺人、遺棄の嫌疑が掛けられている。この事件の直後、同じく沖縄で米軍兵の飲酒運転が原因で2名もの人命が失われた。この2つの事件は広範な社会の反応を呼んだ。

抗議市民の多くは手に、米軍基地が日本にある限り、犯罪は続くと書かれたプラカードをもって参加し、米軍基地の沖縄からの撤退の請願書に署名し、米軍兵の犯罪について自分たちへの公式的な謝罪要求を掲げている。

現在、沖縄には2万6千人の米軍兵がいるが、いくつかの資料によれば1972年から現在までに日本で行なわれた米軍兵による犯罪件数はほぼ6千件にも及ぶ。しかもそうした犯罪が常にしかるべき方法で捜査されるわけではない。

スプートニクはこの問題について日本在住の豪州女性キャサリン・フィッシャー氏と話し合った。フィッシャー氏も日本での米軍兵のレイプ被害者でその辛い体験をどう乗り越えたかを『私がキャサリン・ジェーンです』(邦題『涙のあとは乾く』)に著している。キャサリンさんはスプートニクからのインタビューに対し、事件を乗り越えるのに米軍と日本の司法を相手に12年間に渡る長い闘争を語ってくれた。

 

「レイプ被害を受けた場合、まず警察に行きます。私もそうしました。でもそれが間違いでした。

日本の警察は私をあたかも犯罪者のように扱いました。私を拘束し、病院に行きたいという訴えも聞き入れてくれなかったのです。私が病院に連れて行かれたのはようやく翌朝になってからでした。2002年当時、日本の警察はレイプ後に行なわねばならないテスト(精液採取など)に必要なものは何も備えていませんでした。日本におけるレイプ捜査の最大の問題は警察に知識も準備も必要な設備もなかったことでした。

しかも私の場合、レイプ犯人は米軍兵士で裁判が行なわれているにもかかわらず、日本を出国する機会が与えられたのです。これは私にとってはあまりにも不当な扱いでした。

 

私は日本政府に支援を求めました。ところが政府は何も出来ないといったのです。このため私は自力で10年もかけてレイプ犯を探さざるをえませんでした。なんとこの人間は他の犯罪を犯した罪で服役中だったのです。

私は日本の役人らに訴え、犯人を見つけたから今度は私の訴訟を米国の裁判所で続けられるよう求めました。答えはノーでした。なんと日本の米軍基地の地位についての合意では米軍兵は日本の法律を尊重するだけでよく、それに遵守しなくてもよいのです。私は役人らに対し、ということはレイプ被害者を全く擁護できないような米軍人の地位についての合意は改正するときが来たということだといいました。」

レイプ事件後の14年で、キャサリンさんは沖縄駐留米軍人のレイプ被害者の権利を守る活動家へと化した。

「私は14年にわたって闘い続けてきました。この中には日本政府が犯罪犠牲者が訴えることのできる24時間のセンターを作り、それに財政的支援を行う要求も含まれています。ですが私の要請は単に無視され続けています。もし日本政府が犯罪が行なわれる度に適切な措置をとっていれば、この若い女性はおそらく今、亡くなってはおられないんですよ。こんな事件が起きるたびに日本政権は事件に対する不満を表明するだけ。米国の軍人らは安全を守り、軍人に責任ある行動をさせるよう全力をつくすといいます。でも実際には何もそうしたことは行なわれていない。この問題にはもう一つ、別の側面があります。それは、米国人らは私の場合のように、どんな犯罪を犯しても米国に送り返してくれると疑ってもいないことなのです。」

 

キャサリンさんも6月19日の沖縄での抗議行動に参加した。キャサリンさんは心の底から沖縄県民に同情し、自分の闘争を続ける覚悟を決めている。キャサリンさんの闘争の本質はみんなの人権を守るということにある。

「沖縄の人たちは本当に思いやりのある人たちです。あの島には素晴らしい人たちがいます。唯一彼らに残されているのは静かな暮らしが出来るよう要請することだけです。今、私は展覧会を組織しているのですが、そこで日本の紳士靴を展示することになっています。靴には説明書きとしてこう書かれます。『これはある男性の靴です。このかたは1945年、レイプされそうになった自分の妻を守って、米軍兵に殺された』と。この展覧会を日本中の国民が、世界中の人たちが目にした時、沖縄の人たちがどんな思いでいるかがわかるのではないかと思うのです。」

~~~~~~~~~

♫ 沖縄での米兵の事件の数は圧倒的に多いことが、この記事でもわかります。

また、警察は女性のレイプに対しては、実は本腰を入れていないのです。女性が不当に扱われている証拠です。

しかし、場面が変われば、これは操作することに使われているのが現状ではないでしょうか?どちらも、女性を不当に扱っているのに、変わりありません。

ニホン国が、先進国とは言えないことは、このようにあきらかです。

オーストラリアから来日して、米兵にレイプされニホンの警察に助けを求めたにも関わらず、裁判中でも米兵を本国に送り返すような国です。日本の現状を世界に知ってもらいましょう。彼女ももともと、強い女性だったわけではないでしょう。オーストラリアにかえろうか迷いもしたそうですが、現在日本で活躍してくれています。

沖縄は元は琉球王国でした。それを明治政府が強奪したのです。

そして、戦争は9月まで続いていたのです。本土は8月15日ですが、沖縄は9月にはいっても、戦争は続けられたのは、なぜでしょう?

歴史を学び、皇室の歴史を知ると、なぜ沖縄をこのようにして搾取しつづけるのか、おぼろげながらわかってきます。
日本本土に古来から住んでいた民族だからです。そのDNAを色濃く持つDNAの持ち主を後から本土に入ってきて、痛めつけるのは、苛めと同じ構造です。

アメリカの独立前の、歴史とまったく同じことに、驚きます。

しかも、アメリカインディアンのDNAは日本人のDNAとつながっているのです。

アメリカでも、日本でも排除されてきたのです。

 

 






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スプートニク日本 アンドレ・イヴァノフ編集長が急逝58歳でした<>

2016-06-25 12:22:54 | 社会問題 日々雑感

2016年06月24日 00:43スプートニク日本より転載 

スプートニク日本語課を率いてきたアンドレイ・イヴァノフ編集長(58)が6月19日に急逝。この死はスプートニクにとっても大きな打撃だが、ロシアにおける日本研究者界も大きなショックを受けている。死者の魂は語り継がれ、生きている人間の記憶から去らない限りは生きている。イヴァノフ氏がロシア正教の9日目(仏教で言う初七日に近い)を迎える6月26日を前に、追悼記事を表したい。

アンドレイ・ウラジーミロヴィチ・イワノフ氏

東アジア、日本問題でスプートニクのページにしばしば名前の挙がるモスクワ国際関係大学のドミトリー・ストレリツォフ教授。イヴァノフ編集長は絶大な信頼を置いていたストレリツォフ氏によくインタビューを依頼していた。露日の研究者間でも有名なストレリツォフ氏はイヴァノフ編集長について、次のように語っている。

 

「アンドレイは素晴らしい専門家だった。国際政治、東アジア地域という領域を見事に網羅する本当の意味でのプロだった。

複雑に絡み合った状況、時に接近も難しいというとき、アンドレイはいつも一番重要なことをつかみ、いわゆる先導の星を見いだすことが出来た。

アンドレイは東アジアの地域情勢のことで、露日関係について、領土問題についてまた日本の国内問題、経済問題についてインタビューを採ろうとよく電話をくれた。彼はそれらの問題に精通していることははっきりと分かったから、彼と話すのは本当に面白かった。私自身も彼の非常に充実した深い考察を読もうと『ロシアの声』『スプートニク』のサイトをよく覗いたものだった。私のようなこの分野での専門家にとってはアンドレイも彼のコメントも実に多くを教えてくれるものであり、それからたくさんの新たな事を学んだものだった。

そんなこと以外にもアンドレイは人間として素晴らしかった。優しくて、親切で、控えめな人だった。アンドレイが亡くなったと聞いたとき、周りの世界ががらんどうになり、その大事な部分が失われたように思えた。

アンドレイ、どうか安らかにお眠りください。」

日本研究家でジャーナリストで執筆活動も行なうアレクサンドル・クラノフ氏(日本研究家協会、ロシア史研究会会員)はアンドレイ・イヴァノフ編集長とは17年来の友人だった。つい先日もクラノフ氏の出版した『ロマン・キム』の本をスプートニクが取材するよう取り上げたのはアンドレイさんの提案だった。

 

クラノフ氏はアンドレイ・イヴァノフ氏との大切な思い出を語り、そのあまりにも早すぎる死を深く悼んでいる。

「アンドレイ・イヴァノフ氏が自分より13歳も年上だったなんて、彼が死ぬまで知らなかった。彼はいつだって僕には年上の友達だった。とはいえ年上なのは事実そうで、なんでもよく知っていたし、出来る。分かる。教え上手。それなのにいつも変わらず友達でいてくれた。近くて、分かり合えて、すぐに飛んでいける。

僕たちが知り合ったのは1999年の春、日本への記者旅行のときだった。僕はついちょっと前に雑誌「今日の日本」に就職したばかりで、アンドレイはそのちょっと前にそこを退社したばかり。『創造的なキャリアアップ』を図るためと彼の退社理由を僕たちは冗談めかして語っていた。

彼の元職場と僕の今の職場が一緒だとわかったとたん、僕らは『俺、お前』で呼び合うようになった。話が進むうちに、なんと僕に充てられた担当は雑誌社の中でもアンドレイのやっていた『日本の習慣、武道、日本流マネージメント』で、つまり彼の直接の継承者だってことがわかった。しかも彼はそれらについて全部、またはほとんど全部、それはそれは詳しく知っていた。当時僕は何も、またはほとんど何も知らなかったのだが、大事な事はできた。それは学ぶために目を見開き、耳をそばだてるということだった。

日本での2週間は彼の庇護のもとに過ぎた。僕が初めて覚えた長い日本語のフレーズはルポルタージュ的なもので、これも東京のど真ん中の日枝神社で彼が教え込んだものだった。『お写真を撮らせていただいてもいいでしょうか?』

アンドレイが『コメルサント』紙に就職したとき、僕は彼と知り合いなんだ、こんなに経験を積んだジャーナリストと昔一緒に日本に行ったことがあるんだと誇らしかった。アンドレイには時々、特に複雑な問題について電話で相談していた。彼が柔道や合気道をやっているところに通いもした。

ただ時間が経過するにつれ、付き合う機会は薄れていったが、それでも互いに視界から消えることはなかったし、会うたびに昔からの友人に再会したときのように喜び合った。新しいニュースはないか、何か変わったニュースはないかと尋ねあった。だけど彼が死んだというニュースを待つはめになろうとは考えもしなかった。しかもこんなにも早く…。君のことは決して忘れない。」

Песенка журналистов-Дайте жалобную книгу

~~~~~~

♫ 動画はスプートニクで紹介されていました。「ジャーナリストの歌」です。

アンドレイ・イヴァノフ氏が急死されたようです。58歳ですから、若いですね。

彼のニホンに対する記事は、非常に的確に物を見る人で、偏狂はまったくみえない、素晴らしい人だと思います。

そして無くなって、わずかな日数しか経っていないのに、私はなぜか、このスプートニク日本の記事が少し変わってきているように感じています。

思い過ごしでしょうか?

 






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