東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

きだみのる,『東南アジア周遊紀行』,潮出版社,1974

2009-01-11 16:41:32 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
タイ・ラオス・カンボジアの旅行記、1968年から69年にかけて。
初出は『世界』『中央公論』、それに『文藝春秋』『展望』『潮』。

最初に言ってしまえば、わざわざ捜して読む必要なし。タイやラオス、カンボジアについてのおもしろい話はない。
ただ、当時の日本、当時この地域にいた外国人のようすを知るおもしろさはある。
ただし、ひじょうに読みにくい。この著者の書き癖もあるし、前後関係がわからない人物があるし(阪大の岩田君というのは岩田慶治のことだろうな……という具合)、当時の読者の関心を推測して読まなくてはならない。

で、その当時の読者の関心というのは、ムラというか、字(あざ)、農村共同体、著者のいうところのは、近代化の中でどうなるべきか、という問題。
どうなるも、こうなるも、そんなことはマチの人間にゃあ、関わりのないこったろう、というのが、ムラの人間の言い分だったろう。
この著者の『気違い周游紀行』(今となっては出版できない禁句を含む)も当時おおきな話題を呼んだであろうが、なにをあったりまえのことを書いているんだろうね、都会のセンセーは、と思った読者も多かったのではないか。

その著者が、東南アジアにも日本の(くりかえすが、このというのは、集落、字(あざ)のこと、未解放のことではないよ)のようなものがあるはずで、その調査の下見のような旅行が本書のもとになっている。

今から見ると、こんな見方は完全にハズレです。

人間どこでも同じだ、だから、おまえらアジアの人間も、我々アメリカ人のようになりたまえ、というのがエライ迷惑であったのと同じく、我ら稲作農民はみんな同じだ仲間だ、という日本人の考えもエライ迷惑だったのである。

その日本人が、当時1960年代後半に大勢タイ・ラオス・カンボジアに居住していた。というか、著者はそういう人脈の中で行動して見聞しているのだから当然だが、その日本人の様子がよくわかる。
外交官、海外青年協力隊(著者が平和部隊、平和部隊と書いているのでアメリカ合衆国の団体かと思って読んでいたら日本の海外青年協力隊のことらしい。)、日本工営、農機具メーカー、本田技研に味の素など、たくさんの日本人がいたのである。
また、フランスやUSAからの政府関係者、US Aid、平和部隊もたくさんいた。

そんなタイ・ラオス・カンボジアの様子がよくわかる。南ベトナムへは行けず。
カンボジアでは戦時賠償ではない日本の援助が展開されていた。
ラオスではチーズやワインが輸入されて、大使館や政府関係者に配られていた。
医療関係者の殺傷事件がタイで頻発していた。

それで、著者・きだみのる、この人物は完全なコスモポリタン、半フランス人でシティ・ボーイ、荒畑寒村や大杉栄と交友があり、アテネ・フランセのフランス人に連れられてフランスに行って暮らした人物である。
ちなみにアテネ・フランセは極東学院とも人脈がダブり、著者はギメ博物館や人類博物館の学者たちとも交友がある。
レヴィ・ブリュール『未開人の思惟』を訳しているし、ファーブル昆虫記も訳している。

そんな人物ですので、(字、ムラ)の観察といっても完全に外部からの目である。

当時、1960年代は、まだまだ都市とムラの差が歴然としており、都会の人間にはムラの情報が珍しかったのだろう。
同時にムラを近代化しよう!という進歩派(?)の考えの間違い、胡散臭さも意識されていた。
しかしこの頃、1960年代半ばから、急速にムラは解体し、同時に都市のほうもムラ化していった。食いっぱぐれの次男坊・三男坊が都市に流入し、ムラでは農作業よりも道路工事の賃労働が現金収入の道になっていく。

その都市の中のムラ的なものの代表が創価学会。
その創価学会系出版社・潮出版社は当時急速にインテリ知識人を取り込んでいた。
本書の初出誌である『世界』や『中央公論』からはみでた知識人を取り込んで、味方につけようとしていたのだろう。

ただし、この方針は(もし、そういう方針だったのならば)、まったく不要であり不必要だった。

創価学会ともあろうものが、ヘラヘラしたインテリに頼ることはないのだ。
自分達は自分達の、インテリから蔑まれるような人間関係や掟を守っていればいいのだ。そういうことを、きだみのるは主張していたんではないか。

これは皮肉でもなんでもない。
創価学会とも共生できないようでは、ムスリムや漢民族やクリスチャンと共生なんかできるわけないじゃん。

ただし、そんなムラ的な人間関係、の掟、字の暮らしを東南アジア全体に求めてもダメだった。
当時1960年代、USAもヨーロッパもさかんに東南アジアの民族調査をしていたのだが、その結果わかったことは、日本とは違うってことでしょう。