◎千葉市在住の妹から届いた「末松太平の遺品の一部」から そのいくつかを 記録しておく。
①/井上孚麿著「時局国民精神読本/御製を拝して」1937年・国民精神文化研究会発売・定價六十餞。
②/齋藤瀏著「二・二六」1951年・改造社刊・定価230円。
③/重光葵著「昭和之動亂・上巻」1952年・中央公論社刊・定価230円/地方定価240円。
④/大沢久明「右翼と青森縣」1966年・文芸書房刊・定価120円。
⑤/大沢久明著作集1「右翼と青森県」1973年・北方新社刊・880円。
◎これらの書籍は 今では「実物」を手にすることが難しくなっている。参考までに 内容を簡単に紹介しておく。
①/誌名を正確に記せば「御製を拝して 戦争に就いての反省」である。井上孚麿氏による「はしがき」には「御製を謹解し又は奉賛しまつらむとするが如きは思ひもよらず、本書は只御製を拝して受けたる自らの感銘と反省の迹を書きしるしたる迄のことなり。大方の叱正を得れば幸甚なり」と記されている。昭和12年の発行で紙質も劣悪。傷みが激しく 頁を開くだけでもボロボロと崩れる状態である。
裏表紙に「1946・9・21 鷺ノ宮寄贈 田村」と記されている。鷺ノ宮=故・相沢中佐留守宅。田村=田村重見氏。
このあたりの経緯は《田村重見編「大岸頼好 末松太平/交友と遺文」1993年刊》に詳述されている。
②/齋藤瀏(予備役少将)=禁固5年。齋藤氏は「昭和5年 三十余年奉職した軍を退き 特命を拝して・・・」という立場にいた。
「月日の立つのは早い。あの二・二六事件後、早くも十数年を経過した。しかもこの十数年程、我が国の歴史に轉變のあったことは、恐らく未曾有と言い得よう。そしてこの歴史轉變の中心は、あの事件を起こした青年将校等を死刑に處し、重罰を與へた所謂軍閥であることを思へば・・・」
以下省略。この本も紙質劣悪 傷み激しく頁を繰るだけで崩れる状態なので(興味ある内容だが)慎重にならざるを得ない。
※巻末に「二・二六事件部隊行動圖」と「二・二六事件民間側行動圖」という《明細なチャート図》が添付されていた。数百人の人物が(直線や矢印で)錯綜して結ばれている。大変な力作だが 事件の詳細を知らない人には《何が何だか判らない図表》でもある。
※末松太平は「民間側行動圖」に登場。「青森第五聯隊 末松大尉」だけで(一緒に検挙された)志村中尉 杉野中尉の名前はない。
③/重光葵氏は 1945年9月2日にアメリカ戦艦「ミズーリ」艦上で(全権大使として)降伏文書に調印した人物である。
その後 1946年4月に「戦犯」として逮捕され 有罪=禁固7年。1950年4月29日に巢鴨拘置所を仮出所。
本書(1952年刊)の「緒言」には「1950年3月1日 於巢鴨獄中記」と記されている。
上巻「第一編/満州事變(若槻、犬養政党内閣)」は「天剣党/三月事件/満州事變」という流れで始まる。数々の動乱の発端に「天剣党」を挙げたことには驚きを感じた。十月事件、血盟団事件を経て「上海事変」が勃発。重光氏は休戦交渉を続けるなかで(朝鮮独立運動家の爆弾テロによって)右足切断の重傷を負っている。
上巻「第二編/二・二六叛亂(齋藤、岡田海軍内閣)」は「齋藤海軍内閣/海軍軍縮問題の破綻/満州国と関東軍/廣田三原則」と続き「二・二六叛亂」に到る。その内容は「皇道派と統制派/相澤事件/士官学校事件/重臣の暗殺/犯徒との交渉/叛亂の鎮定/叛亂と外国使臣/廣田内閣の成立」という展開で記されている。この本も 傷みが激しく 頁を繰るのを躊躇うことに変わりは無い。
参考までに「第三編」以降も記しておく。「第三編/北進か南進か(廣田、林弱體内閣)」「第四編/日支事變(近衛第一次内閣)」「第五編/「複雑怪奇」(平沼中間内閣)」「第六編/軍部の盲進(阿部、米内軍部内閣」ここまでが上巻。下巻には「第七巻/日独伊の枢軸」から「第十編/降伏」までが記されている。
④/表紙を開くと「1966年 ベトナム支援デモ行進の先頭に立つ筆者大沢久明」という写真。筆者紹介=日本共産党・青森県委員長。
頁を開くと「贈呈 平井信作様 大沢久明」という署名がある。即ち「平井氏の手から末松太平の手に移った本」ということ。
平井信作(1913~1989)=作家。直木賞(1967年上期)候補。《東奥日報「五連體の将校たち/末松太平『私の昭和史』を読んで」全9回連載》の概要を紹介しておく。
「私(平井)が青森歩兵第五連隊に入営したのは 昭和9年1月10日である。その時、五連隊は満州に出兵して、留守隊であった。/私たちが幹候になると、亀居中尉が小銃の教官、末松中尉が機関銃の教官になった。/末松大尉は亀居大尉のように重厚ではなく、軽妙な感じの将校であった。日本軍人特有の重々しい臭さはなかった。/末松大尉は私たち幹候を将校集会所に呼んで、いろいろな国体観の話をした。その時、必ず志村中尉もいた。/末松大尉が『教育総監更迭事情要点』のガリ版刷りを配布したという理由で、重謹慎三十日の処罰をうけたのは、私が見習士官で応召siしていた時だった。/末松大尉は重謹慎を終えると、奥さんを貰うのだといって、汽車に乗ったのを、私たちは見送りした記憶がある。その時、亀居大尉は、末松のお嫁さんは初代千葉市長の娘だなんて言っていた。それを汽車の中で聞いていた末松大尉が、普段に似合なく、むず痒いような顔をした。/軍隊生活を呪う人は多い。その呪わしい軍隊で、私が亀居大尉と出会ったことは、地獄で仏に会ったようなものであった。/私にとっては、軍隊は二十二歳の修練の場であった。そこで私は、亀居、末松、杉野、志村の諸将校に会ったことは、私の人生に意義をあらしめた」
本題に戻して 本書の中から「19/叛乱将校の本県農民デモ計画/竹内・淡谷登場」の冒頭部分を紹介しておく。
「叛乱将校のグループの中に、農民と結びつかない限り成功しないと考えていたものがいた。五連隊将校末松太平はその筆頭であったかも知れない。『農民である兵は何故こう貧乏なのであろうか。何故貧乏の原因である小作人になったのであろうか』そのことを検討したいために、末松は大きな関心を持った」「末松は、淡谷悠蔵、竹内俊吉と三人、主として竹内の家で農民問題が取上げられた」「ある日、渋川善助が青森を訪れた。五連隊の官舎で渋川を囲み、竹内、渋谷、末松、それに渋川を案内する旧制弘前高校の学生佐藤正三が集まる。その 時、渋川は・・・(以下割愛)」。
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《以下割愛》の理由は いずれご理解いただける筈である。・・・ということで 今回はここまで。(末松)