◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎続々・例えば「真実を語り継ぐ役割について」とか◎

2022年06月09日 | 末松建比古

例えば、何かの弾みで「二・二六事件というもの」に関心を抱いた方がいるとする。
その方は、今まで全く何の知識もなかったのだから、書籍やネット検索に頼って知識を吸収するしかない。
そして、運悪く「悪意ある歪曲本」や「間違い連発本」に出合って、そのまま素直に吸収してしまうと・・・。以下省略。
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◎ネット検索すると「2.26事件一般社団法人仏心会」というホームページを発見できる。
※このホームページは《仏心会について》《22士のプロフィール》《トピックス》の三本柱で構成され、開設した理由も記されている。
※「河野司編 2.26事件。1957(昭和32年)5月・日本週報社刊」
「河野司氏は河野寿大尉の兄であり、また元仏心会の代表を務め、事件関係の資料の収集、保存、そしてまとめて編纂し上梓したものです。
この本は現在入手は極めて困難と云われています。事件関係22士の経歴について教えて欲しいとの要望が多く寄せられていますので、この度仏心会のホームパージを立ち上げ、これら要望に応えようとするものです」

※要するに「一般社団法人仏心会」のホームページは《河野司編「2・26事件」日本週報社刊》を転載するために開設されたものである。
だから《仏心会を設立した栗原勇氏について》や《仏心会の歴史について》などの記述はない。それ以上を求めても仕方が無い。



◎画像参照。河野司編「二・二六事件 獄中手記・遺書」1972(昭和47)年3月・河出書房新社刊。本書の《あとがき》を紹介しておく。
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※「昭和32年5月『二・二六事件』を編纂刊行(日本週報社)してから、既に15年が経過した。
「当時は、まだ事件に関する一般的関心は薄く、初版二千部(内買取買取四百部)の市販に汲々としたものであった。
「これよりさき、昭和27年に立野信之氏の作品『叛乱』が直木賞を受賞し、これが映画化、演劇化されて、一時叛乱ブームを呼んで、国民の視聴に二・二六への新しい窓口を開いたものであった。しかも『叛乱』は磯部浅一の行動記を主軸に、叛乱将校側から描いた作品であり、それまで陸軍省発表以外に知らされていなかった国民に新たな関心を与えたものである。このような下地が芽生えていたにも拘わらず『二・二六事件』の売行きは出版社の思惑を裏切って伸びなかった。私がこの書の出版を意図して持ち回った大手出版社のどれもが、乗ってこなかったことも、むべなるかなと自信を砕かれた思いをした。時期尚早であったのだろうか。
「その後、徐々に需要を見て36年に千部の再版を見た。それも、41年頃、日本週報社の解散に際し、残部百余冊を私が買取ったのである。
「ところが此頃から、急速に二・二六関係の研究が、歴史家、作歌、関係者等によって進められ、数多くの著書、論文、作品が刊行、発表された。事件を取材した数本の映画も作られて上映された。昭和史上に占める二・二六事件の意義が再認識されての結果であったろう。それによって『二・二六事件』への需要も増えてきたが、絶版になっている本書は、古本屋にも殆ど出回らず、需要者の要請に報いることが出来なかった。
「偶々42年仙台において、磯部、村中両名の獄中手記が発見され『文芸』誌上に公開するに及んで大きな反響を呼んだし、其他に資料として追加採録を適当とするものも入手し、さらに、15年間に当時不明確であった事実が判明するなど、原本の解説、その他にて増補、訂正加筆を要する事項も重なった。
「このため、将来の歴史的資料性の正確を期するため、かねてより増補改訂版の出版を念願していた。幸いにして関係各位よりの再出版の御要請に支えられ、今回、河出書房新社より刊行の運びとなった。本懐之に過ぎない。深く御礼申上げる。なお改訂出版に当り、末松太平、高橋正衛両氏の御協力をいただいたことを、ここに深謝してやまない。
「事件以来三十有六年、この間多数の方々から、資料的にも、仏心会に寄せられた絶大なる御賛助と御高庇に対し、改めて深甚の感謝を献げるものである。昭和四十七年二月 仏心会代表 河野司」
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※日本週報社刊から河出書房新社刊へ。表記が「二、二六事件」から「二・二六事件」に変わったことにも御注目。



◎昔々 森田忠明サン(朋美サンの夫君)に誘われて「楯の会」のメンバーと居酒屋で歓談、その後も何度か同席している。
※先日の「国際文化会館」でのランチビールの席では、そういう昔話にも花が咲いた。
※私「賢崇寺法要が《三島由紀夫との合祀》になった事が、一度だけありますね」。皆様の反応「え?」。
今泉サンまで「え?」という意外な反応だったので、私の方も驚いた。

※三島由紀夫氏が市ヶ谷自衛隊で自決したのは、1970(昭和45)年11月25日である。
翌年2月26日。二・二六事件満三十五年忌の記念すべき追悼法要が「三島由紀夫氏の追悼慰霊」との合祀となった。
当時は(麻布賢崇寺ではなく)渋谷公会堂地下で法要が行われていたのだが、この「合祀」は「仏心会代表」の独断であったらしい。
※「仏心会の歴史にない異例のことで、この行事の案内発送後、幾多の人々からの異議申入れや強硬な非難も直接耳にした」。
その後 河野司氏ご本人が《自著「ある遺族の二・二六事件」1982年2月・河出書房新社刊》に記している。(末松)
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