◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

ひろ坊様へ 車力村小作農民組合のこと

2009年05月03日 | 今泉章利
ひろ坊さま 細かくなくて申し訳ありませんが、私の理解していることを書きます。私が、末松太平先生からいただいたコピーは、どこかの本の一部で、たぶん、青森県史とかそういうものの一部と思いますが、出典を示すものがないので、どなたが書かれたのかわかりません。が、それから理解しているものです。ここには大正15年から昭和の初めにかけての車力村の小作争議が書かれています。政党色など一切ない人々の命の叫びの中に、末松先生は何かを感じ、私に、二・二六事件だと言われたのだと思います。

大正13年の岩木川の氾濫で、車力村は、田圃も家も水につかりました。おまけに、霜、霰の冷害が一帯を襲い、産業のほとんどすべてといってよい米は七分作、五分作、三分作、皆無作となってゆくのでした。一方、当時の農業は小作人が耕して小作料を地主にはらうやり方でしたが、この小作人が地主に払う小作料は、とても多いものでした。
この頃、小作料は、全国平均で収穫の50%をこえていましたが、青森県では54%でした。さらに、津軽北部では、75%という記録もあるような状況でした。この数値だけでも驚くのですが、実際に地主から田んぼを借りるためには、前作米という契約と同時に一年分の小作料(お金)を払わなければなりませんでした。そしてこの年の秋には、もちろんそれとは別にお米で払うというものでした。所が話はこれで終わりません。当時の伝統では、さらに、礼米といって、地主に対して小作人は、4年に一度、一年分のお米を地主に収めなければなりませんでした。つまり、実際の小作料とは、54%なら67%に、75%なら94%のお米を毎年平均収めることになるのでした。信じられないけれどこれが実態でした。そして、そこに冷害や水害が襲ったら、すべてを取られて小作人はなすすべがありませんでした。目の前で、地主は、米蔵を建て、百姓は残りのわずかなお米で暮らしていたのです。勿論、小作料を払わなければ、小作人は追い出されるのでした。この話はもっと書こうと思いますが、大正13年の岩木川の氾濫、、、大正15年の5月1日のメーデーの日に、車力村の鎮守の森から、青森県で初めてのメーデーが起こったのです。
参加したのは、車力をはじめ、木造町れんげ田、筒木坂、稲垣村下繁田、中里町長泥、山茂木、芦野、下牛潟、などから650名であったそうです。そのスローガンには「小作人から田畑をとりあげるな」「小作人から飯茶碗を取り上げるな」「小作料を負けろ」「小作人を人間扱いにせよ」「小作人の生血を吸う鬼畜地主を倒せ」と行進し、農民組合の発祥の地として、全国新聞などで、車力の名前が紹介されたと書いてあります。

昭和のはじめと言えば、大岸さんも西田さんも、末松さんも、もちろん国民もその矛盾は強く感じていました。しかし、天皇の名において制定された明治憲法およびその政府は、そのような昔の農業の体制ととも存在し、それを変えさせまいという強い意志を、警察を擁する内務省の実際的なゲバルト(暴力)で封じ込めていったのでした。

ひろ坊様、今度また、車力村にいって当時を知っている昔の長老に話を聞こうと思っているのです。私の知らないことなど御教えくだされば幸いです。

(今泉章利)

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河野進氏ご逝去

2009年05月03日 | 今泉章利
河野司先生のご二男であられます進様が4月26日、心臓の御病気のため享年60歳でご逝去されました。ここに謹んでご報告申し上げます。御家族の方には心よりお悔やみ申し上げます。

進様は、晩年、お父様(河野司さま)とお母様(河野華江さま)を通じての河野壽様を書こうとしておられたようですが、残念なことでありました。なお、河野華江さまのお妹様は92歳でお元気であられることを聞きました。お元気なうちにお伺いしたいと考えております。

また、お兄様の道思(みちただ)さまは、進様よりも御年長のため、河野司先生の家に来られた方につきもう少しご記憶らあられるようですので、こちらもお伺いしていろいろとい話を聞こうと思っております。

(今泉章利)

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ひろ坊さまへ 車力村のこと

2009年05月03日 | 今泉章利
ひろ坊様

先日、報告申し上げました「小作争議」は、昭和48年に、車力村役場が編纂した、「車力村史」というものの一部であることが判明いたしました。この本は、非売品なのですが、先日ようやく手に入りました。634ページの大作です。

これと関連してですが、1977年に作間雄二おいう方の書いた「戯曲 西津軽郡車力村 -ある日本の医師の物語ー」というのも入手いたしました。岩淵先生を「石淵先生」にしていられましたが、当時の様子が伝わってくるようです。

末松先生はこのような生活に根ざした改革こそが昭和維新の本質であると言われておりますが、このような維新活動方針は大岸頼好の考えと合流し、維新活動は青年将校の中でも一番貧乏だった對馬中尉のような方たちとするのだと言われています。はっきりとはいわれていませんが、頭での維新活動ではないものが、末松先生の維新の基本というように私は理解しております。

(今泉章利)

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