◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎自伝!「西田派青年将校」師弟並載◎ 

2021年05月14日 | 末松建比古

◎《学藝書林刊「ドキュメント日本人3・反逆者」1968(昭和43)年発行》
※「西田派青年将校」という語句に誘発されて 久しぶりに開いてみた本である。
責任編集3人(谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎)が選出した「反逆者」は12名。。

※雲井竜雄=極刑、金子ふみ子=縊死、古田大次郎=処刑、大杉栄=扼殺、末松太平、磯部浅一=刑死、西田税=刑死、北一輝=刑死、朝日兵吾=自刃、北原泰作、須田清基、尾崎秀実=処刑。以上12名。錚錚たる顔ぶれである。

末松太平「青森歩兵第五連隊の記録」(自伝)★出典=書き下ろし。
磯部浅一「獄中日記」昭和11年7月31日~8月31日)★出典=「2・26事件」日本週報社。
西田 税「戦雲を麾く」(自伝)★出典=未発表稿。
北 一輝「北一輝君を憶ふ」大川周明★「新勢力」第三巻第十二号。 



◎西田税「戦雲を麾く」(自伝)
・・・大川周明、安岡正篤らと国家革新運動の実践にあたるが、後、北一輝とともに青年将校に大きな影響を与え、2・26事件で刑死。
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人生は永遠の戦ひである。/げに、ともすれば侵略し強梁ならんとする彼の醜◎卑劣なる我慾利己放縦安逸淫蕩◎慾などの邪悪を折伏すること、又正善を確立具現することは、一個不可分なるべき魂の戦ひである。/然して、そは自ら正しく行はんがために、思索討究実践である。君が魂の裏に於て、━━自ら正善の確立具現者たると共に、世の人々の正善への指導者たることを要する。/嗚呼、吾等は戦はねばならぬ。然して、一切に克たねばならぬ。吾等の心願は、内外一貫して真なるもの善なるもの美なるもの━━至高の生命の獲得である。/かくして吾が戦ひの生に二十四年は暮れた。此の一篇は「戦闘的人生」と共に、吾が人生を語るべき永遠の「かたみ」である。
大正十三年十二月五月◎ 西田税
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血の流れ
我が家を古今一貫して流るるものは戦闘的精神である。破邪顕正の赤い血であった。/もと我家が現姓を称へて世に立てるは、今より程遠くもなき幕末の世にして、余を以て僅かに第五代とする。始祖文周以前の事は明かでない。唯々遠祖は伯耆羽衣石城主南条虎熊の家臣穴谷平八郎なりと伝え聞くのみである。始祖以来の種々なる記録を見、今尚ほ生き残れる祖母に尋ね、地方の古老が語り告ぐる所をきき、余が通観するに維新以前初代二代の人々の歩みし道は彼の石田梅巌の歩めるそれと大塩仲齋の歩めるそれと、任侠幡随院長兵衛の歩めるそれを合したる形式の小なるものなりし如くである。第三代は早く没して、今生残れる吾が祖母が一家を負うて立った。/父の代となるや、其歩める道祖宗の如く、交友出入依然たるものであった。/余は祖宗の一環精神を吾父に見得た。げに父は吾祖宗其儘を体現せしものであった。(以下省略)
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※この自伝は《序・血の流れ・幼時の思ひ出・故郷の学窓時代・広陵雌伏の三年・聖戦の途に上る・再び戦ひの都の二年・台上最後の戦ひ・魂が歩める二年の路・再び祖国に訣る・北韓の月・曽棲の地広島・二十四春秋》という流れで展開していく。そして文末には《校閲・末松太平》と記されている。

※画像参照。資料提供10人。《末松太平・西田初子》2人の名前が並んでいる。西田初子氏愛蔵の「未発表稿」を 末松太平が「校閲」して公表する。それは 西田派青年将校の責務 だったと思う。



◎末松太平「青森歩兵第五連隊の記録 ━赤化将校事件━」(自伝)2・26事件前夜、東北凶作に心痛めた青年将校の記録。
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二・二六事件連座の獄をでた私は翌昭和十五年、ある会合に出席して、たまたま同席した厚生省労政課長の北村隆に紹介された。紹介したのは、これも同席した竹内俊吉だった。竹内俊吉は永年つとめた東奥日報をやめて、東京の昭和通商に、はいったばかりだった。/私は北村隆とはもちろん初対面だから、初対面のように挨拶した。が北村隆は、いくぶん皮肉めいた笑いをうかべて「末松さんのほうは初対面のつもりでも、私のほうは初対面ではありません。私は五連隊赤化将校事件当時の青森県特高課長ですから、青森県特高史に五連隊赤化将校事件と、はっきり記録されています」といった。/(中略)北村隆のいう赤化将校とは、とりもなおさず当時の私のことである。その意味で当時青森県特高課長だった北村隆にとって私は初対面の相手ではないわけだった。(中略)それにしても、赤化将校事件とは恐れ入った格付けだった。/昭和五年は、半ばから年末にかけて私は、機関銃隊長代理をしていた。(中略)赤化将校事件と青森県特高がいっていたという事件は、この機関銃隊長代理をしているあいだの、除隊兵を送り出すとき、おこしたことだった。(以下省略)
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※西田税氏が用いた「麾く」の漢字入力には(読み方が判らず)苦戦した。西田氏との《教養の差》を実感した。正解=さしまねく。引用しながら《教養の差》に立竦む状況は続出 度々「◎」で誤魔化す始末となった。(末松)
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