◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

ひろ坊様へ 車力村小作争議と政治、そして国民 (追加)

2009年04月26日 | 今泉章利
追加です。

寝るとき、あーーあれを書いていなかったと思いましたが、とてもしんどかったので寝ました。追加します。

まず、この組合名は、タイトルには書きましたが、「車力村小作農民組合」だったようです。そして、車力村の人たちは、あまり権力に屈せず、自ら行動を起こすということで注目されていたのかもしれません。。

もう一つは、農民救済の問題です。これも詳しく調べなければなりませんが、私の理解のポイントは、次の三点です。
(1)農民救済法は、いくつか出されたと思います。しかし、当時の議会のシステムは、現在の日本憲法と異なり、衆議院も貴族院も同じ力を持っていたということです。つまり、両院の賛成がなければ、廃案になります。衆議院から送られてきた法律案を、貴族院が修正して送り返したら、その修正を認めない限り、法案は成立しません。農民救済法は何回か廃案となり、修正を受け、骨抜きになったと理解しています。詳しくは、さらに勉強したいと思います。

(参考)当時の憲法のもとでは、どんなに衆議院で頑張っても、貴族院との、あるいは、枢密院との妥協なくしては、法律の成立は不可能でした。主権者は天皇であり、もちろん、明治憲法を変えることは思いもよらないことです。明治憲法の規定においては、衆議院を除いて国民の意思が反映される所はほとんどなかったと理解しております。地方知事は、政府の任命制ですし、政党は、伊藤博文が作った政友会が基本になっております。そして選挙は、知事のもと地方官僚や警察を実際の手先に使った内務大臣、そして警保局長などが、時の政権の意向を受けて、選挙妨害を行うのですから大変です。話すと長くなるのですが、要は、政友会(正確には立憲政友会)も立憲民政党も等しく、中央官僚、地方利権者たちと複雑で密接な関係があり、明治憲法における国民は、本当に限りなく無力に近い存在でありました。

(2)救済の実施に当たっても問題がありました。小作人に対する救済米に対し利子をとるというものです。昨日述べたあの小作料にこれが上乗せされたらいったい小作人はどのように生きてゆくのでしょうか。しかしそれよりも、もっと激しく彼らを傷つけたものは、小作人は、流れもので何をしでかすか分からない人間だから利子をとるのが当然だというような議論にあったということのようです。これは、小作人の方たちの人間性を否定されたということです。どんなにお辛かったでしょうか。そして話が複雑になるのは、ここに金貸しが登場するのです。あるいは、地主が金貸しになるのです。はじめはいいよ いいよと言っておいて ある時から変身し 借金の返済を迫るのです。裁判所からの取り立てに「あとはカマと仏壇しかない。これを取り上げられたら首をくくるしかない。」と相談に駆け込んだという多くの人たちのことが、淡谷悠蔵氏の本に書いてあります。また、娘売りという話も起こってくるのです。この話も別の機会にしましょう。

(3)最後の、そして最大の問題は、国民、特にインテリの無関心でした。
朝日新聞の荒垣編集局長が現地に行っての全面的な報道でも、都会の、たとえば東京では「かわいそうに」というような目線を下に向けた「同情」しかありませんでした。せいぜい学生が募金箱を持つようなものでした。淡谷さんが、市川房枝に頼まれて向かった日比谷公園のしゃれたレストランでは、ご立派な婦人活動家たちは、一瞥しただけでした。(それどころか淡谷さんは乞食と間違えられそうになったりして、場違いのご自分を感じられたのでした。)だれも、抜本的な問題に触れようとしない、理解していない、触れられないといったほうがいいのでしょうか。。よくわかりませんが、、東北の農民の問題はどこかの出来事でした。私の知っている千葉県の手賀沼の周りの農民たちは冷害もなく、誰も無関心であったという話をその地のお寺の住職から聞きました。

以前、菊池寛の二・二六事件事件当時の日記を、このブログにのせたことがありますが、まったく認識も理解もしていない、それどころか、雑誌の連載が気になってしょうがないというような感覚だったのをご記憶の方もおられると思います。当時東大の学生だった丸山真男の事件の日を回顧する文の中にも、まるで、そのようなもの、つまり、日本の小作人を柱にした農業システムが危機にひんしていることに対する認識をまるで持っていなかったのでした。憲法のシステムが大問題を起こしていたのです。その点、北一輝は違いました。もはや日本を変えるためには、明治憲法体制を崩す以外にないということで、国家改造法案を書いたのです。

多くの人たちは様々なことから国家の危機を感じていましたが、若き陸軍将校たちはこの農民問題を肌身に感じのだと思います。そして、このような政治がなぜ放置されているのだ。という青年の正義感はいやがうえにも高まってゆくのです。そして詳しくはわからないが、明治憲法の中では絶対的な限界があることを敏感に感じ取っていたような気がします。

備考:ひとり貧乏人の中で育ち貧乏の辛惨を知っていた吉川英治は、本当に貧乏で現場で死にかけて、人に騙されて、それでも人がよくて、努力家で人気作家になった人でしたが、、事件を知るや雪の中の蹶起した兵隊にキャラメルを配ったという話をきいています。

(今泉章利)

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