◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎雑録?「西田派青年将校」のあれこれ◎

2021年03月24日 | 末松建比古
◎末松太平は「悲哀の浪人革命家・西田税」の中で 北一輝と西田税との《出会い》を記し 松本清張は「昭和史発掘」の中で その部分を引用している。
※北・西田の出会いを記したものは多々あるから 松本清張は《たまたま末松太平の著作を引用しただけ》ということだろう。
松本清張と末松太平との間には(三島由紀夫と末松太平のような)特別な接触があったわけではない。



※私が目撃した昔々の出来事を披露する。年月日の記憶は曖昧だが《画像=末松太平宅》の頃だったのは確かである。
画像の家は 1984(昭和59)年に改築して外観が変わるのだが この《滑稽な事件》は1965年辺りの出来事だったと思う。
当時の私は(1964年に)銀座6丁目の広告会社に就職していたが(学生時代と同様に)家族と一緒に暮らしていた。
その夜遅く 会社から帰宅すると 末松太平が電話で口論している最中だった。内容は判らないが 口論というより《口撃》に近かった。
喧しい電話は延々と続き 遅い夕食中の私には迷惑この上ない。「電話の相手は誰?」と母に訊ねると「松本清張らしい」と答えた。
電話の相手が 松本清張本人なのか 清張事務所の人(例えば藤井康栄サン)なのか 母にも判らない。やがて長い電話は「いいかげんなことばかり書くな!(ガチャン!)」で終わった。
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◎北一輝と西田税の《出会い以降》について 松本清張はどのように記したのであろうか。
※書棚の《松本清張著「北一輝論」講談社文庫・1979(昭和54)年1月15日刊》に手を伸ばす。
《二・二六事件に連なって北一輝が刑死したのは昭和12年8月であった。以来、正体のつかめない「思想家」として様々な思想図式や議論にさらされてきた。ここに著者は、決定的ともいうべき、この人物についての論著を、周到な実証に最も客観的な歴史論の立場から迫り達成した。待望の文庫版、いよいよ刊行》
・・・これが カバーに記されている文言である。

※Ⅰ・北一輝解釈と時代背景。Ⅱ・「国体論」の粉本。Ⅲ・史的「乱心賊子」論。Ⅳ・明治天皇と天智天皇。Ⅴ・「改造法案」の自注。Ⅵ・その行動軌跡の示すもの。Ⅶ・北一輝と西田税。Ⅷ・決行前後。Ⅸ・断罪の論理。(全332頁)
《北一輝は、外見的には社会主義者として出発し国家主義者として終わった。これをめぐって彼の「転向」とか「一貫性」とか「動揺」とかの問題がある。北の外見がそのまま彼の実体かどうかは本稿で分析していくつもりである》
松本清張による分析は微に入り細に亘って繰り広げられる。田中惣五郎や高宮太平の著作への目配りも充分である。西田税との関連で 大岸頼好・大蔵栄一・末松太平・菅波三郎・小川三郎・相沢三郎・磯部浅一・村中孝次の名前も記されている。また「改造法案」には惹かれつつも北・西田に対して以上の先輩のようには強い興味を持てなかった「二・二六事件首謀将校」栗原安秀・香田清貞・中橋基明・安藤輝三のことも忘れてはいない。総合的に判断すれば「優れた本」には違いない。
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※ところが 驚いたことに 淡々と綴られてきた「分析」は「Ⅶ・北一輝と西田税」に至って《悪意の連発》へと急変する。
「・・・北や西田にとっては、青年将校運動がいつまでも『危険』な状態でつづいていかなければならない。その危険度が高ければ高いほど、北は三井のようなところから大金が入るのであり、西田もその分け前によって生活が潤うのである」
「・・・もし、青年将校運動がら過激性が減少してくると、それに比例して北の収入は減ってくる。西田の収入も少なくなる。西田が青年将校を煽動し、状況を北に報告すると、北はそれにもとづいて情報料や『安全保険金』を財界人から集金してまわる。西田は『仕入れ係』であり、北は『外交係』であった」
「・・・だが、その煽動が行き過ぎて青年将校らが実際にことを挙げてしまうと、北・西田いっぺんに元も子もなくなってしまう。青年将校運動をいつまでも実行準備段階にしておいて、しかもその過熱によって暴発しないように適当に抑える、そのバランスのとりようが北・西田にはまことに微妙であった」

※この表現に対する《当時73歳の末松太平》の反応は不明である。
当時の私は「二・二六事件」に全く関心がなく 父親との対話にも興味がなかった。末松太平も冷淡な息子(私)に対し 心情を吐露することもなかった。
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※松本清張著「北一輝論」では「西田派青年将校」という語句は見出せないが 同じ意味の事柄は記されている。
「・・・菅波、大岸、末松、大蔵らは決行を時期尚早とする自重論者であり、この点は西田と意見が一致していた。一致というより西田の意見に彼らが従っていたといったほうが当たっていよう」
「・・・栗原や安藤のように北・西田に対する漠然とした不信感から計画を知らせなかったのと、磯部や村中のように北・西田を大事にするあまりこれを知らせなかったのと、ふたとおりの理由があったわけである。もっと簡単に言えば現役将校組は 北・西田を疎隔し、浪人組は 親北・西田派であった」(末松)
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