◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「青年将校の心情を伝える」ということ◎

2021年03月07日 | 末松建比古
◎2021年3月5日(金)。NHK-BS1「二・二六事件の全貌」再放送。
※2月23日の昼下りに放映された番組の再放送だが 正確を期するなら《再々放送》と書くべきだろうか。
いずれにしろ「波多江たま様の葬儀場面」に再び出会えたことは 望外の喜びだった。



◎国民新聞(平成4年2月25日)掲載。《2・26事件の対馬中尉偲ぶ「邦刀遺文」》山口富永。
※以下は 私なりの校閲を加えた要約である。
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※この著書は 二・二六事件で処刑された青年将校の一人である対馬勝雄中尉の令妹にあたる白井タケ、波多江たまのお二人が生前の兄を偲んで出版したものである。
「兄は昭和八年ごろ号を『邦刀』とつけておりましたので、この印刷物を『邦刀遺文』とすることにいたしました・・・」と述べているが、その末尾に「昭和五十二年八十八歳で逝去いたしました母なみが最後まで兄の日記、日誌、手記、手紙などを断簡寸墨にいたるまで保存しておりましたのを死後発見いたしました。これこそ兄の人柄を物語る遺文であり、これを子孫に見せて記憶に残してもらいたくて印刷に代えた次第でございます・・・」とある。そして、既に七十歳も半ばすぎたお二人が、二年の歳月をかけて出版を決意するに至った動機を次のようにいっている。
「昭和十一年の事件から五十五年の歳月が過ぎようとしています。私達遺族は、総てを忘れてしまいたいと思いながら暮らしてきました。
でも、ある検察官の残した事件の公判資料や、思いもよらないテレビ放映や、それを追うように出版された本などによって、昔のことが昨日のように鮮烈に浮かんできて、幾夜も眠れない日が続きました・・・」「私達は刑死した兄を美化するつもりは毛頭ありません。ただ、兄の本当の心が判って下されば何よりも有難いと思います」とこの一章を結んでいる。
ある検察官とは、匂坂春平法務官のことであり、テレビ放映とは、昭和六十三年のNHK特別番組「二・二六事件 消された真実」であり、出版された本とは、澤地久枝著「雪はよごれていた」日本放送出版協会刊である。
「あのNHKのやり方、澤地さんの本を見て、あれでは余りにも兄が可哀相で・・・」と、このお二人は、兄との同志で当時の青森の連隊にいた末松太平大尉に相談したという。国民新聞の主幹から、この本の紹介を依頼されたとき、私よりも末松さんこそ最適任と思い、この旨を主幹に伝えて謝絶していた。このようなある日、久しぶりに末松さんの手紙が届いた。
「対馬中尉の遺文を読んで所感如何。小生はまだ一頁も読んでいません。いうまでもなく読めないからです」「小生は五年来 新年歌会始に詠進することにしています。あと、生きてる限り詠進しますが多分当選はしないでしょう。しかし銃殺された同志は 銃殺されたらそのままの姿で天皇陛下の傍に行こうと言って死にました。詠進歌で当選したら陛下の傍に呼ばれます。小生が陛下の傍近くに参ることは、此の方法しかありません。死んだ同志は陛下の傍に未だ参っていないと思います。だから小生が参るのです」と、既に八十七歳の高齢、往年の覇気は今も片言隻語の中に迫るものがあるとはいえ、数年来眼を患い不自由に耐えながら天眼鏡を頼りに執筆さえしている末松さんである。この手紙の末尾の一句に私は絶句した。私がこの「邦刀遺文」について紹介の労をとらせてもらおうと思い立った経緯である。
末松さんは「邦刀遺文」の中の追悼録に、対馬中尉の生家が、青森といっても北端の下北半島寄りの寒村であることを挙げ、対馬中尉は、この津軽農民のための構造的貧困を抜本的に救わんがために蹶起したもので、いわば、軍服を着た百姓一揆の精神であった、と述べている。これはまた、全く、末松さんの心境でもある。
末松さんは追悼録の中で、生前の対馬中尉の御母堂から聞いたという逸話を載せている。それは御母堂が天皇陛下に対し「陛下のことをあれ程大事に思った勝雄を、陛下は何故殺させたのでしょう」と不敬の念を持ったという。こんな時、ある夜、対馬中尉が夢枕に立って、天皇をお恨みしてはいけないという仕草をしたという。それは「対馬中尉は、天皇陛下にも坐っていただくといって、せっせと円座を作っていたという。出来上がった一つを指さして、母堂にも坐るよう勧めたという。この夢を見て以来、母堂の天皇陛下に対する不敬の念は立ち消えたという・・・」のである。その人を見んと欲すればその友を見よ、という。革新将校として、対馬中尉と末松大尉を」思う。
NHKの放映と澤地の著書・・・「これでは余りにも兄が・・・」という対馬中尉令妹の深い嘆きを、昭和史の中から抹殺埋没させてはならない。
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◎山口富永氏と波多江たま様との間には「直接的な交流」はなかった。
※そういうわけで 山口氏に依頼されて 私経由で《山口富永著「近衛上奏文と皇道派」2010年・国民新聞社刊》を 波多江様宅に送付したこともあった。
波多江様からは直筆の(そして長文の)お手紙が届いた。二・二六事件に関しては言いたいことが限りなく浮かんでくる。長文のお手紙からは波多江様の思いが溢れでているように感じられた。(末松)
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