◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎特別公開「中野正剛の謎と私」末松太平◎

2020年07月01日 | 末松建比古


◎末松太平が感じた「中学三年の長男(私)」のことなど・・・。
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※最近は友人や知人に会うと、新聞に出ていましたね、週刊朝日で読みましたよ、と良く言われる。その後で、出版屋いじめは止めなさいと言われたり、本の良い宣伝に利用されましたねと言われたりすることもある。なかには冗談ではあるが、いくらか貰いましたかと言うものもあり、いくらか貰った方が良かったのかと思ったりもする。
※九月の二十日頃と思うが、西銀座一丁目の原田春実君の事務所に立寄って雑談していると、大森四郎という六十年配の人が来て、いきなり「原田さん、貴方の同郷の先輩のことだが、重大なニュースを僕は聞き込んだ。それを聞くと貴方は卒倒するかも知れない」と言って、原田君の顔をジッと見つめた。原田君は「なんですか」と笑っていた。
※大森という人は、笑い事ではないといった顔で「中野正剛はなぜ自決したか知っていますか」と切り出した。勿体ぶって少し間を置いていたが、続けて「あれは共産党員ということが発覚したからですよ。貴方は尊敬する同郷の先輩のことだから信じたくないだろうが、当時の検事がちゃんと証拠を握っている。これまでの犯罪事件と一緒に近く本になる」と言って、原田君の反応を窺ったが、原田君は別に卒倒もせず、驚きもせず、相変わらず笑っていた。
※大森という人は、原田君だけでなく、その時居合わせた私や、飯野海運社長の弟さん等をも考慮に入れて、特ダネを誇っている訳だった。
その態度がちょっと小面憎いものだったから、私が癖を出した。
「それはウソだ。原田君が卒倒したら水をブッかけようと思っていたが、そうしなくて済んで幸いだった。今度は執筆者の方が卒倒を覚悟した方が良さそうだ。中野正剛を尊敬している人が沢山いるから」と私は言った。大森という人は、ここでちょっと驚いたようだったが、確実な証拠があるのだから、と繰り返していた。

※こんなことがあったあと、私は風邪をこじらして二十日ばかり家に引きこもっていた。その二十日目頃の夕方、朝日新聞社会部の鈴木という記者が訪ねてきた。千葉支局からかと聞くと、東京の本社から車を飛ばして来たのだと言う。この鈴木記者の記事が、朝日新聞の朝刊に載り、週刊朝日にも載ったわけだ。

※鈴木記者は、例の問題の「大正犯罪史正談」という本を見せ、読んだかと聞くから読んでないと言うと、この本は「ある筋」の抗議により出版を中止したことになっているが、その「ある筋」というのは貴方だ、と言う。それは違うだろう。正剛会の永田正義さんがすぐ近所にいるが、そちらに行くのが本筋だ。でなければ進藤一馬さんの処に行くが良い、と私は言った。
※その時、鈴木記者は、問題の本の問題の箇所を開きながら「これは大正十何年頃かの話で、中野正剛が四百何号かの党員番号で、ソ連と連絡したときの暗号文書を解読したものだ」と概略を説明した。それで大森という人の言ったことと、本の内容が一致していないことが判った。鈴木記者も少し当てが外れたといった顔で「大森という人は軽率ですね」と言った。それで私も、一個人の思想遍歴がどうあろうと、
それは他人の口を挟む要もないことだが、自決の原因が共産党員であったとすると、それは中野正剛にとっても、その関係者にとっても大変だと思ったから抗議したのだと言っておいた。

※二,三日経って、音信をしばらく切らしていた友人から、朝日新聞を見て活躍ぶりを知ったと、葉書が来た。それで、記事になるまいと思っていたことが記事になっていたことを知った。しかし、朝日新聞をとっていない我家では、はっきりしたことは知りようがなかったが、今度は中学三年の長男が「受持の先生が、お父さんのことが出ていると新聞を見せてくれたが、詳しくは読まなかった」と告げた。

※その受持の先生は、私のことを右翼と決めて良く思っていないので、多分皮肉めいて長男に新聞を示したようである。それがまた、週刊朝日にも載って、友人知人から顔を合わせる度にとやかく言われるようになったのだが、新聞の方も、週刊誌の方も、かなり筆が曲げられている。特に週刊朝日の方は、余計な加筆がある。右翼という潜在暴力が自由であるべき言論に圧力を加える、といった意味のことが書かれていることである。それは、これを書いた鈴木という若い記者の、初めからこれは記事になると見当をつけた企図でもあろう。
※朝日といえば、日本の代表的新聞なのだが、こんなに事実を曲げるのかと思うと、右翼の暴力どころでない新聞の暴力に、恐れに似たものを覚える。その筋の抗議という筋は、やはり私だったようである。新聞記者と会った数日後、原田君に会うと、後で大森が来て、末松が言っていたことは本当だろうかと心配していたから、かまうことはないではないか、と言ってやったが、やはり心配そうな顔で、市販することは思い止まらなければならないと、そそくさ帰っていった、と話していた。
 
※その後、正剛会が声明書を出して、問題の本に抗議したなどのことを聞いたが、もう私の出る幕は終わったとみえ、私の周囲には何事もなかった。併し、余談はあるにはある。
※私は、家族扶養の責任を果たしていないことから、近所の家内の交際範囲の賢夫人達に「犬の糞ほどの値打ちもない」と思われている。その夫人達が、女房に内職をさせたり、子供に牛乳配達までさせていながら、一文にもならないことに力瘤をいれていると、今度のことでも陰口だけでなく、家内に直接言ってくる。私の値打ちは更に低下したわけである。
※しかし、これまで音信の途絶えていた数人の知人友人から、住所を知ったといって何通かの手紙を受取る機会には恵まれたし、昔、青森で同じ聯隊にいた先輩から、雌伏しながら一喝仲達を走らせた意気に感服したと、孔明クラスに昇格させてももらった。
   
※昨晩は、このところ台所を干上がらせているので機嫌の悪い家内が、不思議に機嫌が良かったが、それは永田正義夫人から、主人がお宅のご主人を褒めていたと言われて、鯖の干物を一匹貰って来たからだった。私は、子供には食べさせずに遺して置いたという、永田夫人寄贈の鯖の干物の焼いたのを、索漠とした思いでむしり食ったことである。(11・19)
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◎以上は 末松太平の遺品(スクラップブック)からの転載。掲載誌は不明である。
※文中に「中学三年の長男=私」が登場しているから 1955(昭和30)年に書かれたものであろう。
千葉市立緑町中学で 中2中3の担任だった小川先生には 卒業後もいろいろと気遣って頂いた。例えば「教材用の紙芝居を描いて下さい」とか「大きな紙に判りやすく図表を書いて下さい」とか 今で言えば《不要不急》の依頼とともに 千円札をそっと渡されていたのである。県立千葉高校時代の私は 奨学金とバイト(千葉高校夜間部の事務)で学資をまかなっていたから 奨学金と同額の臨時収入は本当 にありがたかった。
小川先生については 当ブログ(2014年4月22日)で触れたことがある。検索の手間を省くために要点を再掲しておく。

※私の通知表《行動の記録》の項目。3年D組になると《人を尊敬する》の評価が5段階の《2》に下がっている。
小川先生による《所見》は「自ら信じること厚く、言動が明確です。内面生活は豊富であり、旺盛で人を惹きつけるものを持っているので、友だちに人気があり信頼されている。だがこれに対して昂然として溶け合おうとしない。教師や友人に対し積極的に好意を持って近づこうとすることが殆どない」
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◎新東宝映画「反乱」が公開されたのは 1954(昭和29)年1月のことである。
※立野信之氏と末松太平の公開対談が(上映記念イベントとして)行われ 地元紙(千葉新聞)に掲載された。
中学生だった私は それで初めて 自分の父親が「二・二六事件と何やら関係があるらしい」と感じたわけである。
しかし それについての《家庭内の会話》は皆無だったから、詳しいことは知らなかったし 知ろうとする気にもならなかった。
※その後も 貧しい暮らしは続いていた。昂然として生きるしかない。それが私の「十代」の日々だった。

※1960(昭和38)年。雑誌「政経新論」発刊。編集兼発行人=片岡千春。政経新論主幹=末松太平。
※1963(昭和41)年。末松太平著「私の昭和史」みすず書房刊。
著者紹介に「ベストン(株)勤務」あるから、その頃には「家族扶養の責任」を果たすようになっていた・・・のかも。(末松)
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