◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎応急対応版「1960年・賢崇寺の周辺で・・・」◎

2020年03月13日 | 末松建比古
◎諸事情あって《ストレスの海》を漂う日々。紛失資料探索もままならぬ状況が続いている。
※しかし 紛失資料の概略を《チラリと仄めかしただけ》で済ませてしまうのも後味が悪い。
探索は諦めた上で 記憶を辿りながら 私なりの表現で「末松太平が書いたこと」を遺しておきたいと思う。
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◎というわけで 以下しばらくは《私=末松太平》として記述を進めていく。



※5月のある日。知り合いの刑事の依頼で、私は警視庁を訪れていた。
警視庁の窓から見下ろすと、国会議事堂を取り巻く「安保反対」のデモ隊がよく見えた。

※私の長男は、国立大学の受験に失敗、一浪生活を送っていた。我が家の経済状態では、国立大学以外の選択肢はない。長男が受験したのは「国立大学・一期校」ひとつだけだった。
今年も同じ国立大学に再び失敗し、布団を被って密かに泣いていた長男は、二浪を避けて「国立大学・二期校」に入学(★注1)、直ぐに「安保反対闘争」に連日参加するようになった。

親父と息子の会話。
親父「警視庁に逮捕されたら、早く出して貰えるようにオレが頼みに行くよ」
息子「全学連といっても、過激なのは主流派のデモ。ウチの大学は穏健な反主流派だから、心配はいらないよ」

※その日、私が警視庁を訪れた理由は、ある容疑者の取調べに協力して欲しいと、知り合いの刑事に頼まれていたからである。
その容疑者は「二・二六事件の関係者」だと称して「仏心会」の名を用いて詐欺行為を行っていたという。
刑事が「末松太平を知っているか?」と訊ねると、容疑者は「良く知っている。でも、先日の賢崇寺法要には来ていなかった」と答えたという。
これは嘘である。賢崇寺の法要では、私は司会役を務めている(★注2)。今年の2月26日も、例年同様に司会役を務めている。当日の参拝者名簿で確認すると、私を「来ていなかった」と答えた容疑者の住所氏名も記入されていた。

※その日の夜。息子と親父の会話。
息子「ジグザグデモの外側だったので、機動隊に何度も蹴られてしまったよ」
親父「それは災難だったな」
息子「蹴られ続けるのはバカらしいから、デモの内側に入ってしまった」
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◎こここからは《私=末松太平》を終えて 自分自身に戻る。
★注1=当時の国立大学は 一期校と二期校に別れていた。私が入学した東京学芸大学(二期校)は完璧な《教員養成カリキュラム》が組まれていた。
※級友の殆どは《教員志望》の志望大学合格者だったが 私のような《ニヒルな落伍者》も数人混じっていた。安保闘争目的の「東大中退オルグ」の級友もいて 私は直ぐに彼の崇拝者になった。
授業料は年間9千円。県立千葉一高時代の授業料よりも安いので有り難かった。私立大学の授業料は(多分)年間数十万円。国公立の優遇が当たり前だった時代のお話である。

★注2=画像参照。法要の司会を務める末松太平。撮影年度は不明だが 畳敷きの会場で 参列者の皆様も座布団に正座している。
※1966(昭和41)年2月26日「事件満30年、大赦20年、慰霊像建立1周年」を迎えた年の「全殉難者31回忌法要」は(賢崇寺本堂が工事中のため)渋谷公会堂地下会議室で行われている。当日の世話人代表は荒木貞夫元陸軍大将。参会者は300名だったという。
※賢崇寺本堂の落慶式は 1972(昭和47)年4月22日であった。ということを考えると 1973(昭和48)年2月26日の「全殉難者38回忌法要」が賢崇寺の本堂で行われたのは確かであるが 画像掲載(年度不明)の場所が賢崇寺であるのか違うのか いささか自信がなくなってしまう。(末松)
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