◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎二・二六事件「獄中手記・遺書」まえがき◎

2007年04月30日 | 末松建比古
◎保阪正康氏が「昭和史入門」のための基礎文献を選んでくれた。
それを読んで「二・二六関係」に挙げられている7冊について、改めてチェックしてみようと思った。
7冊中の5冊には「※」が付いている。これは「現在、店頭での入手がしずらいもの」という印である。
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※河野司編「二・二六事件・・・獄中手記・遺書」河出書房新社、1972(昭和47)年刊。
先ず、この書の、歴史的意義を理解していただくために「初版(1957年刊)まえがき」を引用しておく。

二・二六事件以来すでに二十数年の星霜が過ぎ去った。/二・二六事件は「昭和史」における重要なキー・ポイントであった。事件はわずか四日間の局部的騒擾にすぎなかったが、事件の原因は遠く深く存在していた。当時の深刻な国内の疲弊と腐敗、大戦前夜の複雑な世界情勢などがそれである。そして事件の終結に直結した大陸進攻が、やがて日本を破滅の淵に追いやったのである。かえりみて今更ながら、二・二六事件の持つ重要さが感得されてならない。
不肖、たまたま同事件に実弟の連坐自決するあり、また事件の経緯に多少の関心を抱いた関係もあって、故栗原勇大佐(刑死した栗原安秀中尉の厳父)を中心として集まった遺族の会、護国仏心会に事件直後から携わり、栗原大尉をたすけて事件の真相調査、資料の収集、犠牲者の祭祀慰霊に協力した。しかし当時の厳重な取締りの下にあっては、資料の収集は困難な仕事であった。

昭和十三年、私は職務のため大陸に赴任することになった。苦心の結果集めた資料の散逸を恐れた私は、出発の時、一括してこれを故斎藤瀏陸軍少将(事件に連坐、禁錮五年)に預けた。その後、大東亜戦争から敗戦、私も南支で終戦を迎えた。
昭和二十一年三月帰国後、戦争で一時中絶していた護国仏心会の事業の継承を志した私は、同二十四年、すでに関西に隠退していた栗原氏と相談して、護国仏心会を仏心会と改称して、遺族会の再建を行った。その後二十七年には東京港区麻布の賢崇寺に「二十二士の墓」を建立して、合同埋葬の悲願を達成したが、ようやくこの頃から、二・二六事件など過去のいろいろな事件の真相究明が活発に行われるようになって、その気運に醸成されたのか、各所に秘匿されていた事件に関する貴重な遺書や資料が、次々と世に出るようになった。実に私たちが予期しなかった多数のものが、いろいろの縁故を通じて仏心会にかえって「きたのである。斎藤瀏氏に預けた資料もかえり、また陸軍に抑えられていた獄中での遺書も入手できた。

しかし、こうして仏心会代表たる私の許に集まったかけがいのない遺書や資料は、不測の事態の発生など考えると、その万全の保存は期し難い不安があった。一日も早くこれらを整理し、史料として永久に残したい念願は、終始私の脳裏を去らなかった。
今回、ここに多数の方々の御好意と御援助によって、宿願達成の日を迎えることができたことは、なにものにもかえがたい喜びである。二十余年の過去を想い、感慨胸に迫るものがある。
この刊行に当って貴重な資料の提供を仰いだ仏心会遺族各位を初め、多数の方々の御支援と御厚情に対し、衷心より感謝を捧げて止まない。
昭和三十二年二月二十六日 事件満二十一周年当日

追記
上記のようにして刊行した本書であったが、その後十五年の間に、新たに発見された遺書や、追加増補を妥当とする遺書や、解説其他に訂正すべき事項も判明した。これらを増補改訂して、改めて正確な史料集として後世に残し、二・二六事件の実体解明の資に供したく、ここに再販の運びとなった。
巻末、「あとがき」にこの間の経緯を記したことを附記する。
 昭和四十七年二月  河野司
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