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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

津島祐子「水辺」(センター2001年)③

2020年05月18日 | 国語のお勉強(小説)
  津島祐子「水辺」(センター2001年)③


 二日後の日曜日には、一日がかりで、屋上が補修された。夕方、作業が終わったというので、屋上を覗きに行った。完全に乾くまで、立ち入らないように、と注意されていたので、その注意を娘に何度も言い聞かせながら、屋上への階段を登った。
 ドアを開けて、先に屋上を見た娘が、“海”を見つけたときよりも更に高い金切り声を上げて、騒ぎはじめた。
 なにごとよ、と呟(つぶや)きながら、私も屋上を覗いた。そして、ウ自分の眼を疑った。鮮やかな銀色に一面、照り輝いていた。眩(まば)ゆさに、眼の奥が痛んだ。罅のいった部分を埋める程度の補修かと思っていたのに、防水用のペンキを屋上の隅から隅までたっぶり塗っていったのだった。春ですらこの眩ゆさでは、夏になれば、覗き見ることもできなくなってしまうのに違いない。この街なかで、眼を焼いてしまう、雪原を歩く人のように、海を漂う人のように。
 銀色の海。
 私は笑いださずにはいられなかった。これもまた、素晴らしい眺めではないか。しかも、今度は誰にもこの海を持ち去ることはできない。
 きれいだねえ、おほしさまみたいだねえ、と娘は銀色の屋上に見とれていた。

 屋上の作業が終わり、“海”が消える。
 どうなったかと覗きにいくと、予想外の光景が広がっています。
 娘さんは、「“海”を見つけたときよりも更に高い金切り声を上げて、騒ぎはじめ」る。
 何ごとかと思いながら覗いた私は、自分の眼を疑いました。

 「眼を疑う」は、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。あえて言い換えるなら、「見ている景色が信じられない」ということですから、正解は②しかありません。

 “海”が失われた代わりに、新しい「銀の海」が生まれる。
 水を失ってがっかりするのではなく、新しい暮らしへの確信を得られたような気分になってもおかしくないことが象徴的に描かれています。「しかも、今度は誰にもこの海を持ち去ることはできない」と「私」は考えます。

 藤野から電話が掛かってきたのは、その次の日の夜だった。私には、ますます藤野の気持ちをこじらせるような応対しかできなかった。藤野の声を聞くたびにどうして足が震えるのか、分からなかった。
 同じ夜、私は自分が銀色の星の形をした器のなかに坐っている夢を見た。器は少しずつ回転を速め、気がつくと遠心力で、私の体は平たくなり、壁に貼(は)り付いていた。許して下さい、と叫ぶと、中学生の頃の同級生が私の星を見上げて言った。
〈あなたは、どうして、そう、だめなの〉
 同級生と言っても、親しく口をきいたこともない、ずば抜けた成績の持ち主だった。いつも級長に選ばれていたのはともかく、容姿も整っていたので、男友だちも多かった。それにしても、あの人を今頃、夢に見るとはそのこと自体、馬鹿げている、と思いながら、そんなことを言われたって、だめなものはだめなんだもの、と涙を流しながら弁解をしていた。それに、これでも見捨てずにいてくれる人だっているわ。本当よ。きっと、いるわ。
 ウ悲しげに首を横に振り、立ち去って行った同級生は、昔のままの美しい少女だった。

 そんな私の気持ちも、夫からの電話で水をさされます(うまい!)。
 するとこんな夢を見てしまいます。
 「銀色の星の形をした器のなかに座っている」と、「器は少しずつ回転を速め、気がつくと遠心力で、私の体は平たくなり、壁に貼り付いて」しまう。思わず「許して下さい」と叫ぶ「私」。中学のころの同級生が登場し、「あなたは、どうして、そう、だめなの」となじる。

問5 波線部ア~ウにおける「私」の想像や夢の中に現れる「人影」や「同級生」の様子を、「私」はどのように受け止めていると考えられるか。最も適当なものを一つ選べ。

 二つの内容をもった選択肢の場合、前半、後半のどっちかに明らかな間違いが見つかったら、残りの半分を読まずにおとしてしまいましょう。
 ①は「周囲の人々が … 心の支えとなっている」で×。ここでおとす。念のため後半を見ても「客観的な態度で教えてくれている」がよくわかんなくてだめ。
 ③は、前半の「従うべきかどうかと悩んでいる」という部分が誤り。後半の「決断できない私」もだめ。
 ④は、前半の「今後のことを心配して忠告してくれる」は微妙。判断しにくいが、周囲の人は世間的価値観で「私」をせめるのであって、心配してくれてるとは考えにくい。後半の「親身になって叱ってくれる」という部分は完全にちがうといっていいでしょう。
 かといって、⑤「藤野のいうことを聞くようにと迫ってくる」もおかしい。そこまで明確な指示をしているのでない。後半の「ひややかに批判」は波線部の「悲しげに首を横に振り」とあわない。

 主人公の身になんらかの事件がおこり、それが描写されて物語が生まれます。
 事件は、主人公と世間との関わりで起こります。
 評論を読むための補助線は「近代」、小説では「世間」という補助線をひいてみましょう。

問6 この文章における「水」についての説明として適当でないものを二つ選ベ。

 ①水は「私」を危険に陥れることがあると同時に、無邪気にさせたり心を弾ませたりもする二面牲を持っている。
 ②水は「私」に現実的な不安と心の安らぎとを与えており、それは「私」の心の振幅の大きさを示している。
 ③水はひとときのあいだだけ「海」を出現させることによって、「私」に現実のはかなさを思い起こさせる。
 ④水が豊かに拡がる様は、日々の生活で気が晴れない思いをすることもある「私」の心を明るく解放する。
 ⑤水の透明性は心を洗うような働きをするとともに、「私」の不安定な現状を暗示している。
 ⑥水の印象が「私」の心に鮮やかに残り、ペンキが塗られた屋上まで「海」と感じさせるようになっている。
 ⑦罅にしみ込む水の存在は、藤野夫婦のあいだに心の亀裂が生じていたことを比喩的に表現している。

「適当でないもの」を選ぶ、という設問の指示を見誤らないようにしましょう。本番では意外に起こりえます。「適当でない」をぎゅっと囲むとか波線をひくとかする癖をつけましょう。

 ①、②、⑤は、水の二面性を説明していて、正しい。
 ④も、娘とのやりとりから読み取れる。
 ⑥水をたたえた“海”から、「銀の海」に変わったことを表現している。
 ③「水」が「現実のはかなさ」を象徴しているというのは間違い。
 ⑦「水」が「夫婦の亀裂」を表してはいない。もしそうなら、別れる直前に水漏れしているはず。

 小説では表現を問う問題が出題されます。「何」を「どう」表現するかの「どう」が、小説では大事だからです。
 評論は、「何」が大事ですね。
 近年は、評論でもこのタイプに問題が必ず出ますので、なんとなくではなく、きちっと解けるようにしましょう。

 さて、夫と別れたばかりの人妻の心情を理解せよという、この問題の意図はいかなるものでしょうか。
 これからいくつかの問題を練習していきますが、戦時中の女学生とか、死期が迫ったおじさんとか、公害問題の渦中にいるおばあちゃんとか、そういう人が出てきます。
 そんな人の気持ちなんて、ふつう分かるわけないよね。
 じゃ、仲のいい友人だったら、気持ちはわかりますか?
 言わなくてもわかりあえるみたいな時は、実際あるでしょう。ただし、それもよくよく考えるとあやしくないですか。
 他人の気持ちは、実際には誰もわかりません。
 だからといって、わかろうとしなくていいというものではありません。
 与えられた情報を精一杯活用し、わかろうとし、ともに生きていこうとするのが文化的人間です。
 大学入試では、みなさんとは距離感のある人の気持ちを探ってみなさいと問われます。
 それが必要だからです。
 見知らぬ他者とのコミュニケーションのことを、すごく大きなくくりで「学問」と言います。
 ギリシャで何千年前に考え出された人間についての洞察とか、イスラム原理主義者の政治思想とか、電子顕微鏡でしか見えない物質の様子とか、古生代の生物の生態とか……。
 それらとのコミュニケーションを知といいます。
 かっこよく言うと、いまみなさんは知への扉を開けようとしています。
 けっこう力こめてこじあけないと、開かないよ。
 そのような壮大な作業の第一歩だと思って、小説の問題を解いていきましょう。
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恋はデジャ・ブ(3)

2020年05月17日 | 学年だよりなど
  3学年だより「恋はデジャ・ブ(3)」


 同じ日を繰り返すうちに、仕事仲間であるリタに対する思いが芽生えていた。
 フィルは作戦を講じる。リタの趣味や好みや将来の夢を聞き出し、お酒に誘っては意気投合し、部屋に誘う。失敗したら、また繰り返せばいい。
 徐々にうまくいきかけるのだが、つい元々の自己中な素が出てしまう。
 「あなたは結局自分のことしか考えていないのよ」パシッ!(ビンタ)とリタに拒否され続ける。 そして再び2月2日の朝 … 。
 リタを口説き落とす作戦も失敗し続けるうちに、同じ日を生きることにいい加減飽きてきた。
 ベッドの横の目覚まし時計を壊してみても、祭りのグラウンドホッグ(土もぐら)をさらって町からの脱出を試みても、その勢いで車ごと谷底へ落ちても、気がつくと2月2日の朝。

 アルベール・カミュ『シジフォスの神話』は、ギリシャ神話に出てくる「シジフォスの劫(ごう)罰(ばつ)」を小説化した作品だ。
 神を欺いたことで、シジフォスは神々の怒りを買い、巨大な岩を山頂まで運ぶという罰を受ける。 彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に、岩は転がり落ちてしまう。同じことを何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならない。
 これが人間の姿だとカミュは言う。
 人は皆いずれは死んで、全ては水泡に帰すことを承知しながら、それでも生き続ける。
 しかし、同じ毎日の繰り返しに、喜びを見出すことができるのも人間だと述べる。

 毎日繰り返されるグラウンドホッグ・デーは、「シジフォスの劫罰」だ。
 暴飲暴食、犯罪、女、自殺 … 。何をしてもループを脱出できない。
 脱出が不可能なことを悟ったフィルは、無尽蔵な時間を利用してピアノを習い始める。
 楽器が弾ける人が好きとリタが言ってたことを思い出したからだ。
 彼女が好きだと言っていたフランス語を学び始め、古典を読むようになる。
 氷の彫刻を彫る技術を身につけていく。
何ひとつ変わらない日々が繰り返されるなかで、フィルは少しずつ成長していく。
 リタに対する接し方もおだやかなものになる。
 街の人々が起こす事故やトラブルも、ベストタイミングで現れて、それを救うようになる。
 街のどこで、誰が、どんなトラブルを起こすかは、もうすべて頭に入っていたからだ。
 周囲の人たちのフィルに対する態度は当然変わってくる。
 元々は有名人を鼻に掛けた傲慢な男だったフィルだが、いつしか街の人々に溶け込み愛される存在になっていった。
 リタは驚く。今年パンクスタウニーに来てみると、フィルのイメージが一変したからだ。
 そこにいるのは、上から目線で不機嫌そうにレポートをするフィルではなく、街の人たちと笑顔で挨拶を交わし、やさしい視線を送る男の姿だった。
 一年に一回しか来ないのに、なぜ街の人々はそこまで慕われているのか。
 リタは不思議な思いでフィルを見つめながら、彼に対する気持ちが芽生えるの意識していた。
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津島祐子「水辺」(センター2001年)②

2020年05月17日 | 国語のお勉強(小説)
  津島祐子「水辺」(センター2001年)②


 その夜、私も裸足になって、娘とたっぶり屋上の“海”を楽しんだ。なにも危険はないはずなのに、水の拡がりに身を置くことには不安がつきまとい、その不安が心を弾ませた。水を掛け合ったり、鬼ごっこをしているうちに、私も娘もびしょ濡(ぬ)れになってしまった。

 「娘」は、唯一の主人公側の存在ですね。
 水は不安がつきまといながら(-)、心を弾ませるものでもあった(+)という、水の二面性をおさえます。
 このへんは、線をひきはじめると線だらけになるかもしれませんが、それでいいです。
 線をひいて、+記号、-記号をつけておくとなおいいです。

 部屋に戻ると、それまでずっと鳴り続けていたのだろうか、電話がちょうど鳴り終わったところだった。藤野の顔が思い浮かんだ。その顔に重なり、藤野と暮らせるようになった時の自分の喜び、そして、大喜びで婚姻の届けを区役所に出しに行った自分、藤野との子どもをためらいなく産んだ自分に、私はこれからもずっと責任を取らなければならないのでしょうか、と小(注1)林に問いかける自分の声が聞こえた。小林は頷(うなず)いているように思えた。ア同時に、数えきれないほどの人影がまわりに現れ、さかんに頷きはじめた。

 夫との関係性が描写されます。
 結婚当初の、そして娘を授かった喜び、しかし「責任を取らなければならないのでしょうか」という表現の私の今の気持ちがうかがえますね。
 注から会社の上司であることがわかる「小林」は、当然「世間」側の人間です。「同時に数えきれないほどの人影がまわりに現れ、さかんに頷きはじめた」からもそれがわかります。
 もちろん、それはあくまでも「私」の意識する「世間」ですが。

 娘の父親であり、私の夫である男だが、私はすでに一ヵ月以上、その男の知らない、知らせようもない、とりたてて大きな事件は起こらなかったが、その平穏なことに、かえって、これからの日々への怖れを膨らませずにいられないような生活を続けてきてしまっている。安定を保てるはずがないのに、一向に倒れず、それどころか、そのまま根を張り、新しい芽さえ覗(のぞ)かせようとする、歪んだ、こわれやすい、透明なひとつのかたまりを眼の前にしているような心地だった。それが見えるのは、私の二つの眼だけなのだ。藤野と再び、夫婦として、なにげなく顔を合わせるには、B私はあまりにも、この新しく自分に手渡された不安定なかたまりに愛着を持ちはじめていた。夫として私に立ち向かう藤野の口調は、私に、最早、異(注2)和感しか与えなかった。その遠い、意味もよく分からなくなってしまった声に、それでも私は、藤野の方から切り捨ててくれない限り、耳を傾け続けなければならないのだろうか。
 別居を決めたのは藤野の方だったのに、それでも私は藤野を忘れてはいけないのですか。私はもう一度、まわりの人影を眺めた。イそれぞれ私が知っている人に似ているような人影は、一様に深々と頷いた。
 その夜も、水の音は私の耳もとに響いていた。私は柔かく湿った感触に包まれて眠った。

 夫と離れて娘と暮らす日常は、「平穏」(+)で、同時に「これからの日々への怖れ」(-)も感じさせます。
 それは、「安定を保てるはずがない」(-)のに、「そのまま根を張り、新しい芽さえ覗かせようとする」(+)ものであり、「歪んだ、こわれやすい」(-)と感じながら、「透明なひとつのかたまり」(+)と受け止めています。
 今の暮らしは、「新しく自分に手渡された不安定な(-)かたまり(+)」なのです。
 もちろん、世間の人からは責められるものかもしれないが、自分は「愛着を持ちはじめて」いました。
 (-)は自覚しながらも(+)と感じている今の暮らしを「不安定なかたまり」と比喩で表現しているのです。
 「かたまり」が「不安定」という言い方自体がパラドキシカルですが、このような二面性は、人間誰しも、いろんなことがらに対して抱く感覚ではないでしょうか。
 早く学校行きたいけど、今の暮らしも楽とも言える、みたいな。

問3 傍線部B「私はあまりにも、この新しく自分に手渡された不安定なかたまりに愛着を持ちはじめていた」とあるが、なぜ、「手渡された」・「かたまり」という表現が用いられているのか。その理由として最も適当なものを一つ選べ。

 選択肢の前半で「手渡された」の言い換えを、後半で「かたまり」の言い換えをしています。
「かたまり」が何の比喩であるかを考えてみれば、①「責任」、②「こだわり」、③「とまどい」、④「重い」のどれも、あてはまりません。「愛着」にもつながりませんね。 
 「不安定」ながらも、確かな実感を感じ始めている今の暮らしを、こう喩えたのです。⑤「充実感」が正解です。

 その夜も、水の音は私の耳もとに響いていた。私は柔かく湿った感触に包まれて眠った。
 翌朝、呆気(あっけ)なく、給水塔の修理は終わってしまった。屋上はみるみるうちに、透明な水を失っていった。C娘が私の代わりに、修理工を詰(なじ)ってくれた。
  おみずを、とめちゃだめ。けちんぼ!だいきらい!

 危機をもたらすかもしれない(-)屋上の水は、私にとっては「柔かく湿った感触に包まれて眠」る(+)ような、愛着のあるものです。夫と別れた暮らしと、水のイメージが重なりますね。
 こういう表現方法を象徴と言います。「水」は「今の暮らし」の象徴だ、と説明します。
 これは評論にはない、小説特有の表現方法ですね。

  象徴  抽象概念を具体物に置き換えて、感覚的にわからせたり、イメージをつくらせようとする

  (例)日本人の感性 → 鹿おどし  若さ → にきび  理性 → 月

 「比喩」もほぼ同じように説明できますが、対応するものどうしの距離感や、具体・抽象の度合いが違うと言えます。これは改めて勉強しましょう。
 象徴されるものではなく、象徴するものばかりが描かれた小説の場合、読解が難しいです。
 たとえば韻文(詩や短歌・俳句)は、そういう要素が強いです。共通テストでは、出題される可能性があるので、しっかり理解しておきましょう。
 だから私にとって、水が失われることは、今の暮らしを否定されているようにも感じてしまいます。
 しかし、水を無条件に受け入れるわけにもいかないし、そのままにしておけるものでもないことは、当然わかっています。
 娘にとって水は、母親との新しい遊びをうみだすすばらしいものであり、一緒に楽しんでいる母親を見ています。
「おみずを、とめちゃだめ」という娘の言葉は、丸で自分の気持ちを代弁してくれたかのようだ、と「私」は見ているのです。

問4 傍線部C「娘が私の代わりに、修理工を詰ってくれた」とあるが、この表現からうかがわれる「私」の心情はどのようなものか。その説明として最も適当なものを一つ選べ。

 ①「娘が自分の気持ちを察してくれるようになった」ナシ、「水が与えてくれる安息を大切にしたい」不足
 ②「大人である自分は子供のために「海」を残したい」ナシ、「無邪気な子供は好きなことが言えるものだなと痛快に思っている」ナシ
 ④ 娘との二人きりの生活を守っていきたいのだが、「周りからの干渉を防ぎきれずにいる」言イスギ、「娘がそれに一人で立ち向かってくれたので、いじらしく思っている」ナシ。
 ⑤「遠慮を知らない娘の乱暴な言葉づかいに困惑した」ナシ、「その乱暴さがかえって、自分の水への愛着の率直な表明になっていることに気づき」ナシ

 ③ 娘との生活は不安の中に心を弾ませるものがあった。屋上での水遊びはその象徴のようであり、娘がそれを直感的に受け止め自分の気持ちをうまく言ってくれたと思っている。

 水の二面性、象徴性を説明し、娘の言葉は自分の気持ちを察してくれた「かのような」ものだ、と書いてある③が正解です。
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津島祐子「水辺」(センター2001年)①

2020年05月16日 | 国語のお勉強(小説)
  津島祐子「水辺」(センター2001年)①


 小説の1問目は、2001年のセンター試験です。
 まず作家、作品名、リード文を確認しよう。
 評論もそうだけど、最初に設問もさっと視覚に入れておこう。
 いつもどおりの言葉の意味、心情を聞く問題、表現の問題、全部で6問、いつも通りね、ぐらいにざっくりでいいです。
 リード文には、大切な情報が書かれています。
 注があれば、当然それも大事ですね。
 問題を作っている人がつけたものですから、基本的に問題を解くために必要な情報です。
 与えられたすべての情報を利用して解くという姿勢は、共通テストではさらに重要視されます。
 まずリード文を読み、最初の方の段落を読めば、この小説の設定はわかりますね。

 次の文章は、津島佑子の小説「水辺」の末尾である。「私」は夫と別居し、娘との二人暮らしの日々がしばらく続いた。二人の住まいは四階建ての一番上の部屋で、その部屋の中を通らないと屋上に出られない構造になっている。ある夜、「私」は壁の向こうに水の音が聞こえるように思ったが、そのまま寝入ってしまった。翌朝、階下の人から水漏れがするという苦情が持ち込まれる。本文はそれに続く部分である。

 ちなみに作者の津島祐子さんは、三年ほど前にお亡くなりになりました。みなさんにとって有名な作家ではないと思いますが、たくさんの文学賞も受賞してますし、外国の大学によばれて日本の文学を紹介しに行ったりしてた方です。お父さんはみんなも知ってる有名な小説家ですよ。太宰治ですね。ただ、津島祐子さんがまだ幼いときに父親は玉川上水に入水して亡くなってしまいます。血は争えないということでしょうか。こうして高名な小説家になりました。

 主人公は「私」です。本文を読んでわかったと思いますが、夫と別居して一ヶ月ぐらい経っています。
 詳しい事情はわからないものの、夫婦の間がうまくいってなかったことが読み取れましたね。
 さて、評論を読むときに、「近代という補助線」をひくことで、対比が明確になり、筆者の主張の方向性がつかめました。 小説でも、対比を意識しましょう。小説における対比は何でしょう。
 典型的なのは、主人公つまり「主役」と「対役」の関係です。
 たとえば、「下人」と「老婆」、「李徴」と「袁傪」です。
 対役は、基本的に主人公が生きる世の中、「世間」の人を代表する役割を果たしています。
 主人公は、羅生門や山月記で学んだとおり、原則として「反世間的存在」です。
 世間一般の価値観にあわなかったり、世間の人々とうまくいかなかったりして、何らかの屈託を抱えて生きています。
 この小説においても、主人公と世間の人々との対比は典型的に描かれていますね。
 ですから、リード文の「私」は丸で囲み、「階下の人」は四角で囲んで、対比にしてみましょう。傍線と波線とかでもいいですよ。

  すみません、そこは遠慮して下さいませんか。それより、屋上を見てみましょう。けさ、屋上は調べなかったんです。
 私はあわてて、二人の男を部屋のなかの階段に導いた。敷き放しの乱れた蒲団(ふとん)など見られたら、と思うだけで、体がこわばった。
 風呂場は異常なかった。屋上に出るドアを開け、私が真先(まっさき)に外に出た。眼に異様なものが映った。私は、思わず、ア声を洩らした。乾ききっているはずの屋上に、水がきらきら光りながら波立っていた。透明な水が豊かに拡がっていた。

 二人の男、つまり「不動産屋」と「三階の男」ですね。○○さんではなく、「~の男」という言い方で、「私」がその人たちをどういう感覚で見ているかが伝わってきます。
 水漏れの原因を見つけようと家の中をのぞこうとした男達を、「私」はあわてて制する。こんな人たちにプライベートを見られたくないと思いながら、屋上へ導く。
 そこで目に入ったのは「異様なもの」、予想もしてなかった光景でした。屋上一面が水に覆われきらきら光っていたのです。

 私は、思わず、ア声を洩らした。

 「声を漏らす」ですから、つい「え?」とか「うそ!」とか小さな声が出てしまったということですね。①~⑤のなかで一番近いのは、⑤「小さく叫んだ」ではないでしょうか。③「悲鳴をあげた」だと「漏らす」とずれますね。
 ①「ひとりごとを言った」②「こっそりとつぶやいた」ほど意図的な行為ではないですね。④「感情的に言った」も「声を漏らす」とは対応してません。

 「きらきら光りながら波立ってい」る水を見て、娘が叫びます。

  ウミ!ママ、ウミだよ。わあ、すごいなあ!おおきいなあ 。
 娘は裸足のまま、水のなかに跳びこんで行った。一人で笑い声を響かせながら、水を蹴(け)散らし、両手で水をすくいあげたり、顔に水をつけてみたりしはじめた。娘の足だと、水はくるぶしまで呑(の)みこんでしまっていた。
 私と二人の男は水の流れを辿(たど)りながら、給水塔の前に行った。水が、そこから、勢いよく溢(あふ)れ出ていた。見とれてしまうほどの、水量だった。

 娘さんは楽しそうです。「きらきら光る」「豊かに拡がる」「見とれてしまう」は、私の視点を通した水の表現です。マイナスのニュアンスは感じられないですね。
 小説を読むときは、主人公の心情が露骨に書いてある部分には線をひきましょう。
 情景描写も作者の創作ですので、基本的に主人公の心情と重なっていきます。
 とくに主人公の視点で「そう見えた」部分は、心情と同じくらい大事です。
 そういう箇所も線をひきましょう。

  ここから、あっちの方へ流れて、排水口で間に合わない分が、下に洩れていたんですな。どこかに、小さな罅(ひび)でも出来ているんでしょう。それにしても…これは大した眺めだ。
 三階の男も、イ気を呑まれてしまったのか、すっかり穏やかな表情に戻っていた。

 三階の男でさえ「気を呑まれて」しまうような光景でした。
 「気を呑まれる」は、「心理的に圧倒された状態」を表します。辞書的に最も近い①が、当然答えになります。②は「あきれて」がずれます。③「無我夢中」⑤「不審」は文脈的にも入りません。④「引き込まれて」は文脈的に入りそうな気もしますが、もともとの言葉の意味として出てきません。
 ことばの意味の問題は、辞書的な意味にあっているかどうかが最優先です。いきなり文脈で考えてはいけません。

  まったく、これじゃ、あの程度で下が助かったのを、ありがたく思わなければなりませんなあ。
  ほら、お子さんをすっかり喜ばせてしまった。
  うちの孫も、水が大好きですよ。
 二人の男は眼を細めて、水と戯れている娘の姿に見入った。
  しかし、あなた、真下にいて、音ぐらいは聞こえていたでしょうに。
 不動産屋に言われ、私ははじめて、ゆうべの水の音を思い出した。あの柔かな、遠い音。Aこの現実の身にもう一度、蘇(よみがえ)る音だったのか、と私は不意を襲われたような心地がして、肌寒くなった。

 屋上一面が、娘さんのくるぶしまで浸らせるほどの水量で覆われています。
 たしかに、階下の部屋が、ちょっとした水漏れぐらいですんでいたのは、幸運だったのかもしれません。
 私にとっては、「柔かな、遠い音」でした。何か水音が聞こえるとおもいながら眠りについてしまえるような。
 しかし、現実には、一歩間違えばけっこうな被害をもたらしたかもしれなかったと、私も気づくわけです。

問2 傍線部A「この現実の身にもう一度、蘇える音だったのか、と私は不意を襲われたような心地がして、肌寒くなった」とあるが、なぜ「私」は、「肌寒くなった」のか。その理由として最も適当なものを選べ。

 夢うつつで聞いていた心地よい水の音 → 現実は危険なものだった → ぞくっとした = 肌寒い

 自分のとって心地よい(+)ものが、危険なものだった(-)というギャップを説明した選択肢を選びます。
 「肌寒い」ぞくっとする(おそれ・不安)の内容が、②「責任が問われるのではないかと」、③「精神的に不安定ではないか」、⑤「人間の生活の不気味さ」はまったく違う。
 ①は△くらいかな。「放置していた」は、意図的にそうしたというニュアンスがふまれるので、ずれる。
 自分的にプラス側だった水の音が、実は危険と隣り合わせ、という内容ときれいに対応する④が正解。
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恋はデジャ・ブ(2)

2020年05月15日 | 学年だよりなど
  3学年だより「恋はデジャ・ブ(2)」


「ちょっと待ってくれっ!」「笑顔でお願いね!」
 フィルはわけがわからないまま、しぶしぶ2回目のレポートを始める。
「今朝は、パンクスタウニーからお送りします … 」
 中継が終わる、リタのダメだし、大雪で通行止め、ホテルでもう一泊……。
 6:00になる目覚まし時計。
 ラジオから流れる声。「今日も寒いね」「午後から吹雪だって」「でも、みんなの顔は明るいよ」「なんてったって今日は、グラウンドホッグデーだ!」 … 。
 まさか、またも2月2日 … ?
 身支度をして食堂へ向かう、「モーニング、サー」「うるさい!」
「金を恵んでくれ … 」「うるさい!」。やっぱり水溜まりにはまる。shit!
「ハーイ、フィル!」「リタ、折り入って話がある」
「いいわよ、本番が終わってからにして … 」
「それどころじゃないんだ! 同じ日が、もう3回も繰り返されているんだ」
「わかったわ、医者に行って」
 脳の写真には異常が見つからない。しかたなく精神科に出向くと、「明日からしばらく通院を」と言われる。その明日がこないんだよっ!
 朝が来る。2月2日。
 祭りのレポートをする。中継後、カフェに行ってドーナツをあるだけ注文する。
「ねえ、フィル。食べ過ぎよ、からだに悪い … 」「うるさい、ほっといてくれ!」
 朝が来る。2月2日。
 祭りのレポートをする。中継後、途中で見かけた女性に声をかけ、いろんな情報を聞き出す。
 翌日、再び同じ女性に近づいて、○○高校で隣のクラスだったんだよ、その時から気になってたんだ、君は○○が好きだよね、あとで飲みに行こう … 。ナンパは簡単に成功する。
 中継後、途中で見かけた厳禁輸送車の動きを覚え、翌日なんなく強盗に成功する。
 そのお金で服を買い、車を買い、女をはべらせ、豪遊しても、翌朝はふつうに目が覚める。
 飲酒運転でパトカーに激突し、つかまって留置場に入れられても……。
 朝が来る。また2月2日……。
 同じ毎日が強制的に繰り返される状況になったら、みなさんはどうするだろう。
 行きずりのお姉ちゃんとの情事も、暴飲暴食も、犯罪さえもリセットされる。
 ある意味「ラッキー」だろうか。宿題を忘れても、部活をさぼっても、死ぬほど食べても、お金を使いまくっても、翌日にはすべてリセットされるとしたら。
 いわゆる「ループもの」の一つであるこの作品は、アメリカ映画史に残る名作とされている。
「いくら頑張ってもふりだしに戻ってしまう状態」を「グラウンドホッグ・デー」だねと言えば、アメリカでは通じるそうだ。
 さて、フィルは、このループから抜け出せるのだろうか。
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休止符

2020年05月14日 | 日々のあれこれ
 例年だったら、「「である」ことと「する」こと」を授業でがっつりやっていたであろうこの時期。
 リニューアルするつもりだったプリントも作業を中断していた。
 ふと最後の方の一節に目がとまる。


~ 政治や経済の制度と活動には、学問や芸術の創造活動の源泉としての「古典」に当たるようなものはありません。せいぜい「先例」と「過去の教訓」があるだけであり、それは両者の重大な違いを暗示しています。政治にはそれ自体としての価値などというものはないのです。政治はどこまでも「果実」によって判定されねばなりません。政治家や企業家、とくに現代の政治家にとって「無為」は価値でなく、むしろ「無能」と連結されてもしかたのない言葉になっています。ところが文化的創造にとっては、なるほど「怠ける」ことは何物をも意味しない。先ほどのアルバイト(=研究論文)にしても、何も寡作であることが立派な学者、立派な芸術家というわけでは少しもない。しかしながら、こういう文化的な精神活動では、休止とは必ずしも怠惰ではない。そこではしばしば「休止」がちょうど音楽における休止符のように、それ自体「生きた」意味を持っています。ですから、この世界で瞑想や静閑が昔から尊ばれてきたのには、それだけの根拠があり、必ずしもそれを時代遅れの考え方とは言えないと思います。文化的創造にとっては、ただ前へ前へと進むとか、不断に忙しく働いているということよりも価値の蓄積ということが何より大事だからです。 ~


 演奏の機会を増やすことや、いっぱい練習することに、価値をおきがちな日常をいっかい反省してみたら、と丸山真男先生がおっしゃっているようだ。
 文化的創造にとって大切なのは、価値の蓄積――。くぅーっ、深い。
 ひまさえあれば練習する、演奏会に行く、芝居や映画を観るというようなことは、もちろんそれ自体に価値がある。
 とことん熱中してのめりこむ時期もないといけない。
 勉強でいえば、圧倒的なインプットがまず必要であることが論を俟たないのと同じで。
 いまの時期は、楽譜でいうと、休止符の時間なのかもしれない。
 考えてみると、合奏のときに「休符は休みじゃないだろ!」と怒ったりしてたし。
 コンクールができないことも、吹奏楽という活動そのものの意味を見つめ直すいい機会だ。
 休符の直後にどんな音を出せるか。
 休符のあとのたった一音で、なるほど価値ある休符だったと思えるような過ごし方ができるといいなあ。
 吹奏楽界全体としても。
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評論文読解の超基本(3.5)

2020年05月13日 | 国語のお勉強(評論)
評論文読解の超基本(3.5)

 実際に読んでいくときには、キーワードを囲んだり、大事そうな箇所に線をひいたりして、本文を視覚的に立体化します。

1 キーワードを囲む(線をひく)
 筆者の主張を表すキーワードを丸で囲む(傍線をひく)
 反対の意味の語を四角で囲む(二重線をひく)
                のように対比がわかるとなおよい。

2 大事そうな部分(次のような箇所)に線を引く。

 ① キーワードにかかっていく一続きの部分

 ② 定義・テーマを表す文
  「~とはどういうことだろうか」・「~とは~である」

 ③ 大事なことは繰り返される
  「つまり」の後
  「たとえば」の前・「このように」の後
  「このことは」「これが」「それは」の前or後

 ④ 大事なことは対比される
  「ではなく」「しかし」「むしろ」「よりも」の後

 ⑤ 大事なことは理由が述べられる
  「なぜなら」の前・「だから」の後
  「~だからである」と終わる文の前

 ⑥ 大事なことは大事だと言う
  「~が大切である」「~にほかならない」「~ばならない」

 ⑦ 大事なことは遠慮がちに言う
  「~ではないだろうか」「~と考えられるかもしれない」
  「~と私には思われる」

 ⑧ マイナス表現をチェック(波線をひく)する
  例 衰退 減少 転倒 倒錯 病 依存 事態 模倣 破壊
    ~てしまう ~なるものは  ~ですら・ さえ  ~でしかない

 あくまでも原則なので、あとは実際に問題を解きなれる必要があると思います。
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恋はデジャ・ブ(1)

2020年05月12日 | 学年だよりなど
  3学年だより「恋はデジャ・ブ(1)」


 「デジャ・ブ」はもともとフランス語「déjà vu」で、英語でもそのまま「deja vu」という。あえて英訳すれば「already seen」。「一度見た景色」「既視感」という意味だ。
 1993年に公開されたアメリカ映画「恋はデジャ・ブ」の原題は、「グラウンドホッグ・デー(Groundhog Day)」という。「土もぐら(グラウンドホッグ)の日」。
 アメリカ・ペンシルバニア州では、毎年2月2日に「グラウンドホッグ・デー」という伝統行事が行われる。土の中から顔を出したグラウンドホッグが、自分の影を見て再び冬眠を続けようとするか、目を開けるかを見て、春の到来を占うお祭りの日だ。
 日本で言えば「啓蟄(けいちつ)」にあたるだろう(知ってますか?)。
 気象予報士フィル・コナーズは、女性プロデューサーのリタとともに、グラウンドホッグ・デーを取材するため、ペンシルベニア州のパンクスタウニーを訪れた。
 かれこれ四度目になる取材だが、フィルにとって、この人口数千人の田舎街での行事は退屈きわまりなく、身が入る仕事ではなかった。
 前乗りしたホテルで、朝目を覚ます。2月2日。
 6:00になる目覚まし時計。
 ラジオから流れる声。「今日も寒いね」「午後から吹雪だって」「でも、みんなの顔は明るいよ」「なんてったって今日は、グラウンドホッグ・デーだ!」 … 。
 身支度をして食堂へ向かう、「モーニング、サー」「いってらっしゃい!」
 街に出ると、金を恵んでくれと浮浪者に声をかけられる。それを避けて水溜まりにはまる。Shit!
 祭りのメイン会場に着くと、リタがカメラマンを従えて待機している。キューが出される。
「今朝は、パンクスタウニーからお送りします … 」
「ねえ、フィル。もう少し笑顔でレポートできないの?」リタからのダメだしに取り合わず、帰り支度をするフィル。
 なんでスター予報士のおれが、こんな田舎でちまちまレポーターをしなきゃならないんだ … 。
 中継が終わり帰路につく。しかし吹雪のせいで一本道が通行止めになってしまう。
 しかたなく、パンクスタウニーにもどり、もう一泊することとなる。
 翌日の朝。
 6:00になる目覚まし時計。
 ラジオから流れる声。「今日も寒いね」「午後から吹雪だって」「でも、みんなの顔は明るいよ」「なんてったって今日は、グラウンドホッグデーだ!」 … 。
 うん? なにか、おかしい。
 身支度をして食堂へ向かう、「モーニング、サー」「いってらっしゃい!」
 え? 昨日と同じ? デジャ・ブ?
 街に出ると、金を恵んでくれと浮浪者に声をかけられる。それを避けて水溜まりにはまる。shit!
 祭りの会場に着くと、リタがカメラマンを従えて待機している。
「リタ、なぜ二日連続で祭りをやってるんだ?」
「何言ってるの? 今日は2月2日よ。さ、カメラ回すわよ」
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配信テスト

2020年05月11日 | 日々のあれこれ
 はじめてのオンライン授業のテスト。
 iPadで録画ボタンおすだけの動画撮影はなんとかなった。
 ただ、画像がさかさまになったので、直してもらった。
 それをどこかに保存して登録するみたいなのは、やってもらった。
 教室にパソコンをもっていき、いざそれを何しようとしたら、配られたマニュアルの最初に書いてある画面にならない。
 なので、近くにいた若い先生を呼んで、何してもらった。
 設定のしかたを教えてもらったが、たぶんまた頼むことになるのだろう。
 準備ができて、生徒さんとつながることを試みるが、誰もこない。
 テスト配信とはいえ、誰もいないのはさびしい。
 自分としてはふだんからいい授業をしてるつもりだったが、やはり自己評価と他者評価はちがうのだろう。
 気づかないうちに、時代後れになっていたのかもしれない。
 いまの生徒さんの気持ちがつかめないまま……
 「生徒からつながらないという電話がはいってるんですが、どうかしましたか?」
 担当の先生が走ってくる。
 どうもしてない。だからか?
 どうも、生徒さんに連絡してあったIDそのものが間違っていたようだ。
 急遽新しいIDで入ってもらうように連絡してもらうと、回線がつながり始める(この言い方はあってるだろうか)。
 みんな、入ろうとして待っててくれたのね。
 今日はテスト配信ということで、動画を途中でとめて、本番までにプリントを解いておくことを伝えた。
 指示されたとおりにいろいろやっているつもりだが、なかなかうまくいかない。
 すると「先生、それはこういうことなんですよ」と若い先生が親切に教えてくれる。
 「こんなのがわかんないかな、まいったな」と自分なら内心思ってしまいそうだが、そんな空気感がない(表面的には)。
 機械だけでなく、人間的にも、若い先生方にはるかに劣っているようでへこむ。
 いやいや、成長の機会を与えてもらっているのだ。
 それにそういう操作さえできれば、発信するコンテンツには自信があるのだし。
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吹奏楽部員へ

2020年05月10日 | 日々のあれこれ
 報道で知っている人も多いかと思うが、今年度の全日本吹奏楽コンクールが中止となった。
 地区大会もそれに準ずる可能性は高いだろう。
 このあと、コロナはある程度は収束に向かうだろうが、その後、部活動自体がどれくらいできるのか、今のところ検討もつかない。
 個人的な感触でいえば、いま日本の高校生たちは、吹奏楽にかぎらずすべての部活動で以前と同じ活動をしても、ほぼほぼ大丈夫だろうとは思う。
 しかし活動のあり方そのものが「密」の上に成り立っているのが吹奏楽でもあるので、運動部以上に慎重にならざるを得ないのはたしかだ。
 だから、学校再開後、部活再開後も、さまざまな活動指針にしたがって、不安を感じないですむようにすすめていきたい。
 ただし、それは決して活動の質を落とすということではない。
 活動の中身や形を変化させることが、注ぐべき情熱を減らすことは意味しない。
 音楽に対する、楽器演奏に対する、音楽芸術に対する真摯な姿勢を忘れてはいけない。
 むしろその思いをより強めていくことで、前よりもいいものをみなさんと作り上げていきたい。
 逆に言うと、思いを強めなければそれは不可能だとも言えるだろう。
 与えられた条件のなかで、より美しい音楽を、よりひたむきな部活動を行っていくにはどうすればいいか。
 これから、みんなで頭をしぼって考えていこう。
 3年は、このまま微妙な感じでフェイドアウトしようかなという感覚にならないように。
 2年は先のことを見据えすぎず、今やるべきことを考えてチャレンジしよう。
 まだ見ぬ1年よ、はやく入部してこい。
 いま準備万端な状態とは言えないが、だからこそ一緒に作っていこうではないか。

 私も、長く教員を続け、吹奏楽顧問を続けてきたが、まさに未曾有の出来事だ。
 練習もできない、定期演奏会も、コンクールもないなんて。
 不運、不幸と感じてしまう気持ちがないとは言い切れない。
 しかし、誰が悪いわけでもないのだ。
 いつもとちがった状況におかれているのは、決して試練ではない。
 いつもとちがった形で、精一杯のことをやるだけだ。
 聞いていただく人に喜んでもらえる演奏をする。
 そのための精進を通して人として成長する。
 この吹奏楽部の根本的な目標を見失わなければ、やるべきことは見えてくる。
 一時この目標を見失っていたこともあって、妙に部内がまとまらない状況になっていたことは記憶に新しいではないか。
 いったん仕切り直して、心を一つにして頑張っていこう。
 
 さしあたり、今、家でやれることを、よりレベルをあげてやっていこう。
 まずは、やることがなくなるくらいに勉強してしまうこと。
 そして、今できる音楽活動。
 楽器そのものに触れられなくても、音楽的能力をあげる手段はいくらでもある。
 むしろ、みんなの多くに足りないのは、楽器以外のことかもしれないし。
 なんらかの形で楽器の練習ができる人はもちろん、工夫してやっていこう。
 そして動画づくりにも楽器でも踊りでもいいので、がっつり取り組もう。
 引退したり退部したりした気分の3年もいるかもしれないが、気を取り直してやってみようではないか。
 この先、いろいろと企画していたイベントも、毎年やっている合同演奏会なども、予定したとおりにはならないだろう。
 むしろ「今まで通り」から開放されて、自分たちで好きなことをやれるチャンスととらえて、楽しんでいきたい。
 新しいイベントづくりは、川東が中心にならなくてどうする。
 かけがえのない1年しようではないか。
 みなさんと練習を再開できる日を楽しみにまっています。
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