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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

休止符

2020年05月14日 | 日々のあれこれ
 例年だったら、「「である」ことと「する」こと」を授業でがっつりやっていたであろうこの時期。
 リニューアルするつもりだったプリントも作業を中断していた。
 ふと最後の方の一節に目がとまる。


~ 政治や経済の制度と活動には、学問や芸術の創造活動の源泉としての「古典」に当たるようなものはありません。せいぜい「先例」と「過去の教訓」があるだけであり、それは両者の重大な違いを暗示しています。政治にはそれ自体としての価値などというものはないのです。政治はどこまでも「果実」によって判定されねばなりません。政治家や企業家、とくに現代の政治家にとって「無為」は価値でなく、むしろ「無能」と連結されてもしかたのない言葉になっています。ところが文化的創造にとっては、なるほど「怠ける」ことは何物をも意味しない。先ほどのアルバイト(=研究論文)にしても、何も寡作であることが立派な学者、立派な芸術家というわけでは少しもない。しかしながら、こういう文化的な精神活動では、休止とは必ずしも怠惰ではない。そこではしばしば「休止」がちょうど音楽における休止符のように、それ自体「生きた」意味を持っています。ですから、この世界で瞑想や静閑が昔から尊ばれてきたのには、それだけの根拠があり、必ずしもそれを時代遅れの考え方とは言えないと思います。文化的創造にとっては、ただ前へ前へと進むとか、不断に忙しく働いているということよりも価値の蓄積ということが何より大事だからです。 ~


 演奏の機会を増やすことや、いっぱい練習することに、価値をおきがちな日常をいっかい反省してみたら、と丸山真男先生がおっしゃっているようだ。
 文化的創造にとって大切なのは、価値の蓄積――。くぅーっ、深い。
 ひまさえあれば練習する、演奏会に行く、芝居や映画を観るというようなことは、もちろんそれ自体に価値がある。
 とことん熱中してのめりこむ時期もないといけない。
 勉強でいえば、圧倒的なインプットがまず必要であることが論を俟たないのと同じで。
 いまの時期は、楽譜でいうと、休止符の時間なのかもしれない。
 考えてみると、合奏のときに「休符は休みじゃないだろ!」と怒ったりしてたし。
 コンクールができないことも、吹奏楽という活動そのものの意味を見つめ直すいい機会だ。
 休符の直後にどんな音を出せるか。
 休符のあとのたった一音で、なるほど価値ある休符だったと思えるような過ごし方ができるといいなあ。
 吹奏楽界全体としても。
コメント (2)
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