堀江敏幸「送り火」(センター2007年)①
さて、第2問目です。作品自体は読みやすいと思いますが、解くとなると難しい設問があります。
難しいとはどういうことか、みなさんはなぜ間違うのか、それを明らかにしたいと思います。
まずは、リード文。
次の文章は、堀江敏幸の小説「送り火」の一節である。父の死後、老いた母とのふたり暮らしが心細くなった絹代は、自宅の一部である二十畳敷きの板の間を独身女性に限定して貸し出すことにした。以下の文章はそれに続く場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。
主人公は絹代、老いた母親との二人暮らしです。家は大きそうですね。
女性の二人暮らしですから、部屋を貸し出すといっても、当然女性限定になるでしょう。
しかし、本文にあるように、交通の便がいいとはいえない家の「二十畳敷きの板の間」を借りる独身女性はなかなかいなさそうなのもたしかです。
そこに訪れたのが一人の男性、陽平さんでした。
「一人の男だった」ではなく、「陽平さん」としてあるところに、敵対者ではないことが予想できますね。
もう貸間なんてよけいなことを考えず、やっぱり母とふたりで静かに暮らそうとあきらめかけた二月末の寒い日曜日、事前になんの連絡もなくふらりとあらわれたのが陽平さんだった。周旋屋さん 不動産屋のことを陽平さんはそう言った で、ひろい、板敷きの部屋が、ひとつ、空いている、とうかがったのですが、と当時四十代後半にさしかかっていたはずの陽平さんはなぜかいまとまったくおなじかすれ声の(ア)老成したしゃべり方で切り出し、申し訳ありません、男の方にはお貸ししないんですと驚くふたりに、はい、それはもう、うかがったうえで、やってきたんです、と言い、まだ二十代だった絹代さんの顔を恥ずかしくなるくらいじっと見つめて、おだやかにつづけたのである。
下人のとっての老婆のように「敵対」はしてないですが、陽平さんが主人公(主役)に対しての対役です。
すると、主役が対役をどう見ているか、見えているかというのは大事なポイントになります。
そういうところは線をひいてチェックしましょう。
連絡もなく尋ねてくる、不動産屋を周旋屋とよぶ、かすれ声、老成している、女性の顔を遠慮無く見つめ続ける、などの表現で、陽平さんのキャラクターが固まっていきます。
そして、住むのではなく書道教室として借りたいのだと、「部屋も見ずに、風呂あがりのような表情で」頭を下げるのでした。
(ア)「老成した」は、「十分の経験をつんでいること」または「大人びていること」なので、③が正解です。
母と娘は、正直、(イ)不意をつかれて顔を見合わせた。男性に、しかも書道教室として貸すなんて考えもしなかったからだ。ともあれせっかくだからと部屋を案内し、どうぞ召しあがってくださいと陽平さんから差し出された豆大福をお茶請けに三人で話をしているうち、絹代さんは、このひとが会社を辞めたのは書道教室を開く開かないという以前に、勤め仕事にむいていなかったからだろうと思った。Aまわりを拒んだりはしないけれど、ひとりだけべつの時間を生きているような雰囲気を持っている。年齢も、まったく読めなかった。でも、なんだかこの人なら信用できそうだと絹代さんは直感し、まだとまどっている母親に、小さな子が集まるんならにぎやかでいいんじゃないかな、楽しそうだから、貸してあげましょうよ、と好意的な意見を述べた。母親は母親でまたちがう基準から陽平さんを眺めていたらしいのだが、自分よりも遅いペースで話す男の人をひさしぶりに見たと言ってしまいには納得してくれたのである。
(イ)「不意をつかれて」は辞書的意味が「予期しないことがおこり、驚かされる」ですから、⑤が正解です。言葉の意味の問題は、本文を読まずに解いた方がいい場合は多々あります。
さて、絹代さんは陽平さんを観察します。
「勤め仕事にむいていな」いタイプの人だと思うわけです。「年齢も読めない」。しかし「信用できそう」な人だとも感じる。
母親目線ですが「遅いペースで話す」人というのも、人物像の一つです。
問2 傍線部A「まわりを拒んだりはしないけれど、ひとりだけべつの時間を生きているような雰囲気を持っている」とあるが、「絹代さん」は「陽平さん」をどのような人物としてとらえているか。
傍線がひかれた「まわりを拒んだりはしないけれど、ひとりだけべつの時間を生きているような雰囲気を持っている」は、絹代さんの視点から見た、陽平さんの人物像です。
傍線部と「=」の関係になる選択肢を選びます。
「まわりを拒んだりしない」は①、②、⑤と対応させられるでしょう。
「ひとりだけべつの時間を生きているような雰囲気」と近いのは、この中では①「泰然自若として周囲に惑わされない」でしょうか。
この設問は、四字熟語の意味を知っているかどうかも大きいので、「漢字帳」はもれなく学習しておく必要があります。
確認しておくと、
泰然自若 … 動じない、無為自然 … ありのまま、謹厳実直 … ちょーまじめ、闊達自在 … 自由人、直情径行 … 気持ちつよめ、ぐらいのニュアンスです。
貸し教室としての賃料は不動産屋で適切な額を見積もってもらい、数日後には与えられた書式での契約を無事に済ませる早わざで、それから十日ほどのちに、折り畳み式の細長い座卓が五つと薄い座布団が十数枚、そのほか、紙だの墨だの筆だの作品を乾かすのにつかう下敷きとしての古新聞だのといった消耗品がつぎつぎに運び込まれて(ウ)教室の体裁をなし、新学期がはじまって落ち着いたころには、貼(は)り紙や口(くち)コミも手伝って、学年もばらばらな小学生が五名集まった。
(ウ)「教室の体裁をなし」の「体裁(ていさい)をなす」は「見た目が整う」の意味。「体裁が悪い」「体裁を気にする」などとも使います。⑤が正解です。「体をなす」も意味的に近い言葉ですが読み方は「たいをなす」になります。
とても暮らしが成り立つような人数ではなかったけれど、夏休みを迎えるまでには総勢十二名となり、家の空気もがらりと変わってしまった。勤めている駅裏の大手電器店から絹代さんが自転車で帰ってくると、いちはやく学校を終えた低学年の子どもたちが課題を済ませていて、新興の一戸建てばかりで古い田舎家を知らない彼らは、ぎしぎしきしむ階段があるだけでもう楽しいらしく、わざと大きな音をたてて降りてくる。階段は居間の一角にあるので、教室に出入りする子どもたちは、絹代さんと母親の生活をそのまま横切っていくことになり、なんだか親類の家に遊びに来ているような雰囲気なのだ。そしてかならず、おばちゃん、おばあちゃん、さよなら、と言って帰っていく。この年でおばちゃんはないよ、と泣くふりをしたりすると子どもたちは逆に喜んで、ぜったいにおねえちゃんとは呼んでくれない。そして、B絹代さんにはなぜかそれがとても嬉(うれ)しかった。
陽平さんのひらいた書道教室に子供達が通い始める。絹代さんは子供達をどう見ているか。
「楽しい」「親類の家に遊びに来ているような雰囲気」です。
そして二十代の絹代さんに「おばちゃん、さよなら」と言って帰っていく。「おばちゃんじゃないよ、おねえちゃんだよ」と泣くふりをすると、子供達は逆に喜ぶという、親しげな関係が生まれている。
もともとは、父親を失って以来ひっそりと暮らして家に、子供達が出入りするようになり、子供達の遠慮のない親しさを、家族が増えたかのような感覚でとらえています。
問3 傍線部B「絹代さんにはなぜかそれがとても嬉しかった」とあるが、この部分を含む子どもたちとのやりとりを通してうかがえる「絹代さん」の心情とはどのようなものか。
①「仲間意識」、②「保護者になった気持ち」は少しずれますし、③「書道教室を一緒に経営しているように感じて」は全く違うし、⑤「以前の活気がよみがえった」は事実として読み取れません。④が正解です。
母親は、子供達のためにちょっとしたおやつや、軽食を用意するようになります。
絹代さん自身も、仕事が終わると急いで帰宅し、子供達の面倒を見るようになる。
傍線部Bは、その前に部分で解ける問いではありますが、後ろの部分からも、子供達と「家族に対するような親密さ」を形成していく様子はうかがえますね。
さて、第2問目です。作品自体は読みやすいと思いますが、解くとなると難しい設問があります。
難しいとはどういうことか、みなさんはなぜ間違うのか、それを明らかにしたいと思います。
まずは、リード文。
次の文章は、堀江敏幸の小説「送り火」の一節である。父の死後、老いた母とのふたり暮らしが心細くなった絹代は、自宅の一部である二十畳敷きの板の間を独身女性に限定して貸し出すことにした。以下の文章はそれに続く場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。
主人公は絹代、老いた母親との二人暮らしです。家は大きそうですね。
女性の二人暮らしですから、部屋を貸し出すといっても、当然女性限定になるでしょう。
しかし、本文にあるように、交通の便がいいとはいえない家の「二十畳敷きの板の間」を借りる独身女性はなかなかいなさそうなのもたしかです。
そこに訪れたのが一人の男性、陽平さんでした。
「一人の男だった」ではなく、「陽平さん」としてあるところに、敵対者ではないことが予想できますね。
もう貸間なんてよけいなことを考えず、やっぱり母とふたりで静かに暮らそうとあきらめかけた二月末の寒い日曜日、事前になんの連絡もなくふらりとあらわれたのが陽平さんだった。周旋屋さん 不動産屋のことを陽平さんはそう言った で、ひろい、板敷きの部屋が、ひとつ、空いている、とうかがったのですが、と当時四十代後半にさしかかっていたはずの陽平さんはなぜかいまとまったくおなじかすれ声の(ア)老成したしゃべり方で切り出し、申し訳ありません、男の方にはお貸ししないんですと驚くふたりに、はい、それはもう、うかがったうえで、やってきたんです、と言い、まだ二十代だった絹代さんの顔を恥ずかしくなるくらいじっと見つめて、おだやかにつづけたのである。
下人のとっての老婆のように「敵対」はしてないですが、陽平さんが主人公(主役)に対しての対役です。
すると、主役が対役をどう見ているか、見えているかというのは大事なポイントになります。
そういうところは線をひいてチェックしましょう。
連絡もなく尋ねてくる、不動産屋を周旋屋とよぶ、かすれ声、老成している、女性の顔を遠慮無く見つめ続ける、などの表現で、陽平さんのキャラクターが固まっていきます。
そして、住むのではなく書道教室として借りたいのだと、「部屋も見ずに、風呂あがりのような表情で」頭を下げるのでした。
(ア)「老成した」は、「十分の経験をつんでいること」または「大人びていること」なので、③が正解です。
母と娘は、正直、(イ)不意をつかれて顔を見合わせた。男性に、しかも書道教室として貸すなんて考えもしなかったからだ。ともあれせっかくだからと部屋を案内し、どうぞ召しあがってくださいと陽平さんから差し出された豆大福をお茶請けに三人で話をしているうち、絹代さんは、このひとが会社を辞めたのは書道教室を開く開かないという以前に、勤め仕事にむいていなかったからだろうと思った。Aまわりを拒んだりはしないけれど、ひとりだけべつの時間を生きているような雰囲気を持っている。年齢も、まったく読めなかった。でも、なんだかこの人なら信用できそうだと絹代さんは直感し、まだとまどっている母親に、小さな子が集まるんならにぎやかでいいんじゃないかな、楽しそうだから、貸してあげましょうよ、と好意的な意見を述べた。母親は母親でまたちがう基準から陽平さんを眺めていたらしいのだが、自分よりも遅いペースで話す男の人をひさしぶりに見たと言ってしまいには納得してくれたのである。
(イ)「不意をつかれて」は辞書的意味が「予期しないことがおこり、驚かされる」ですから、⑤が正解です。言葉の意味の問題は、本文を読まずに解いた方がいい場合は多々あります。
さて、絹代さんは陽平さんを観察します。
「勤め仕事にむいていな」いタイプの人だと思うわけです。「年齢も読めない」。しかし「信用できそう」な人だとも感じる。
母親目線ですが「遅いペースで話す」人というのも、人物像の一つです。
問2 傍線部A「まわりを拒んだりはしないけれど、ひとりだけべつの時間を生きているような雰囲気を持っている」とあるが、「絹代さん」は「陽平さん」をどのような人物としてとらえているか。
傍線がひかれた「まわりを拒んだりはしないけれど、ひとりだけべつの時間を生きているような雰囲気を持っている」は、絹代さんの視点から見た、陽平さんの人物像です。
傍線部と「=」の関係になる選択肢を選びます。
「まわりを拒んだりしない」は①、②、⑤と対応させられるでしょう。
「ひとりだけべつの時間を生きているような雰囲気」と近いのは、この中では①「泰然自若として周囲に惑わされない」でしょうか。
この設問は、四字熟語の意味を知っているかどうかも大きいので、「漢字帳」はもれなく学習しておく必要があります。
確認しておくと、
泰然自若 … 動じない、無為自然 … ありのまま、謹厳実直 … ちょーまじめ、闊達自在 … 自由人、直情径行 … 気持ちつよめ、ぐらいのニュアンスです。
貸し教室としての賃料は不動産屋で適切な額を見積もってもらい、数日後には与えられた書式での契約を無事に済ませる早わざで、それから十日ほどのちに、折り畳み式の細長い座卓が五つと薄い座布団が十数枚、そのほか、紙だの墨だの筆だの作品を乾かすのにつかう下敷きとしての古新聞だのといった消耗品がつぎつぎに運び込まれて(ウ)教室の体裁をなし、新学期がはじまって落ち着いたころには、貼(は)り紙や口(くち)コミも手伝って、学年もばらばらな小学生が五名集まった。
(ウ)「教室の体裁をなし」の「体裁(ていさい)をなす」は「見た目が整う」の意味。「体裁が悪い」「体裁を気にする」などとも使います。⑤が正解です。「体をなす」も意味的に近い言葉ですが読み方は「たいをなす」になります。
とても暮らしが成り立つような人数ではなかったけれど、夏休みを迎えるまでには総勢十二名となり、家の空気もがらりと変わってしまった。勤めている駅裏の大手電器店から絹代さんが自転車で帰ってくると、いちはやく学校を終えた低学年の子どもたちが課題を済ませていて、新興の一戸建てばかりで古い田舎家を知らない彼らは、ぎしぎしきしむ階段があるだけでもう楽しいらしく、わざと大きな音をたてて降りてくる。階段は居間の一角にあるので、教室に出入りする子どもたちは、絹代さんと母親の生活をそのまま横切っていくことになり、なんだか親類の家に遊びに来ているような雰囲気なのだ。そしてかならず、おばちゃん、おばあちゃん、さよなら、と言って帰っていく。この年でおばちゃんはないよ、と泣くふりをしたりすると子どもたちは逆に喜んで、ぜったいにおねえちゃんとは呼んでくれない。そして、B絹代さんにはなぜかそれがとても嬉(うれ)しかった。
陽平さんのひらいた書道教室に子供達が通い始める。絹代さんは子供達をどう見ているか。
「楽しい」「親類の家に遊びに来ているような雰囲気」です。
そして二十代の絹代さんに「おばちゃん、さよなら」と言って帰っていく。「おばちゃんじゃないよ、おねえちゃんだよ」と泣くふりをすると、子供達は逆に喜ぶという、親しげな関係が生まれている。
もともとは、父親を失って以来ひっそりと暮らして家に、子供達が出入りするようになり、子供達の遠慮のない親しさを、家族が増えたかのような感覚でとらえています。
問3 傍線部B「絹代さんにはなぜかそれがとても嬉しかった」とあるが、この部分を含む子どもたちとのやりとりを通してうかがえる「絹代さん」の心情とはどのようなものか。
①「仲間意識」、②「保護者になった気持ち」は少しずれますし、③「書道教室を一緒に経営しているように感じて」は全く違うし、⑤「以前の活気がよみがえった」は事実として読み取れません。④が正解です。
母親は、子供達のためにちょっとしたおやつや、軽食を用意するようになります。
絹代さん自身も、仕事が終わると急いで帰宅し、子供達の面倒を見るようになる。
傍線部Bは、その前に部分で解ける問いではありますが、後ろの部分からも、子供達と「家族に対するような親密さ」を形成していく様子はうかがえますね。