水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

究極の吹奏楽 ジブリ編

2012年08月18日 | おすすめの本・CD

 第3期講習のシフトの関係で、三年現代文を一日だけ担当した。
 与えられたのは早稲田・教育の過去問。問題自体はこれといって難しくはなく、とくに早稲田らしい問題というわけでもないので、がちがちの評論ではなく随筆はどう解けばよいか、という観点で話をした。
 こんな一節があった。


 ~ 今日もし円朝のような人物が現存していたならば、寄席はどうなるかということである。一般聴衆は名人円朝のために征服せられて、寄席は依然として旧時の状態を継続しているであろうか。さすがの円朝も時勢には対抗し得ずして、寄席はやはり漫談や漫才の舞台となるであろうか。私は恐らく後者であろうかと推察する。円朝は円朝の出ずべき時に出たのであって、円朝の出ずべからざる時に円朝は出ない。たとい円朝が出ても、円朝としての技量を発揮することを許されないで終わるであろう。(岡本綺堂『岡本綺堂随筆集』による) ~


 「円朝は円朝の出ずべき時に出たのであって、円朝の出ずべからざる時に円朝は出ない」に線がひいてあり、どういうことかと問う。
 「円朝のようなとびぬけた才能をもつ落語家は、時代が生んだものだ」という趣旨の選択肢が正解となり、これもとくに難しくはない。
 参加者の多くも解けていたようだった。
 それほど時間をかけるべき文章ではないが、「天才は時代がつくる」というテーゼは、頭にいれておくといいんじゃないかと思う。
 天才の定義とは何か、そんなことをふと思う。
 たぐいまれな話術と創作力で、いまも盛んに行われる「落語」の基礎をつくった三遊亭円朝。
 それは時代の求めた才能でもあった。
 天才はジャンルをつくる。
 ジャンルをつくりうる存在を天才という。

 10日ほど前に出たCD「究極の吹奏楽 ~ジブリ編」を聴いた。
 アレンジに名をつらねるのが、真島俊夫先生、天野正道先生、鈴木英史先生、星出先生 … 。このCDの発売情報が出て以来、楽しみにしてた吹奏楽関係者は多いだろう。
 ちなみに真島先生が「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「ジブリ・メドレー」。
 天野先生が「魔女の宅急便」「ハウルの動く城」「もののけ姫」と、それぞれ3曲のセレクションをお書きになっている。
 なんと豪華なCDだろう。企画して商品化したミュージックエイトのご関係者には、ほんとによくやってくださったと労をねぎらいたい。
 これで、一部吹奏楽関係の間で、いろいろと話がはずむだろう。

 森田先生、後藤先生のがあるんだから、無理につくる必要はなかったんじゃないの。
 たしかにアレンジわるくないけど、ブレーンのよりむしろ難しくなってんじゃん、楽譜の値段は安くてありたいけど、やっぱ前のにしようかな。
 てか、ブレーンとM8って、争ってんの? こんな狭い世界なのに。
 ぶっちゃけ、演奏どう? 
 わるくないよ。わるくないけど、まあ元々の曲がいいからさ、プロがふつうにやればあれくらいには聞こえるよ。もう一工夫したっていいんじゃね。
 それってさ、アレンジにも言えるよね。普通につなげてあの先生方がアレンジすれば、そんなに苦労しなくても合格点には達するわけよ。
 じゃ、演奏もアレンジも、曲にあまえてるってこと?
 そこまでは言わないけどさ、でもピアノやハープをメインにするのはどうなんだろ。

 なんて会話をする顧問の先生方もいるだろう。
 あの曲はどっち版が好きとか、うちはFLが上手だからこっちのでやってみようとか、いろいろ選択肢をひろげて「ジブリ」作品に取り組めるようにもなるのはすばらしいことだ。
 おれ的には、鈴木英史先生の「千と千尋の神隠し」がよかった。
 さすがのお仕事ぶりと思えた。ここのアレンジがいいとか、曲のセレクトがいいとかではなく、「千と千尋の神隠し」セレクションとしていいと思えたから。
 久石譲作品を吹奏楽にアレンジしたのではなく、久石譲作品を素材にした一つの吹奏楽作品になっているように思えたから。
 思えば「なんとかセレクション」をつくったのは、鈴木英史先生である。
 当初、批判的にみられている方もいたように記憶する。何の世界でも、一気にブレイクした人への風あたりは強いから、英史先生ももてはやされる一方で、本質からはずれた批判などを耳にされたこともあったのではないか。
 しかし「メリーウィドウセレクション」が生まれてなかったら、「セレクション」形式の吹奏楽作品はこんなに生まれてなかった。
 クラシック音楽のアレンジ作品は、一部の上手な学校は上手に演奏できて効果も高かったけど、それ以外の学校には難しくてできなかったり、やってはみてもいいサウンドにならなかったりというのが多かった。
 英史先生のセレクションものは時代の要請でもあった。少人数のバンド、初心者の多いバンドにとってとくに光明だった。
 うちもBからAにうつった年にいきなり県大会に進めたのは、「小鳥売りセレクション」の力によるところも大きい。古い話だけど(ええ、でますよ、来年は県にね)。
 いろんな「セレクション」が出版されているが、じゃほんとに成功しているのはどれだけあるかと言えば、どうだろう。
 AとBとCという曲をアレンジしてつなげましたで終わっているのも見かける。
 AとBとCを素材にして、XやYがうまれてはじめて、「オペラ○○より」ではなく「○○セレクション」になる。
 だから、セレクションなんてオリジナルではない、自分では創造してないじゃないかという批判は正しくないのだ。
 だいたい、自分でゼロから何かを生み出すことはない。
 落語の祖円朝にしても、江戸時代に庶民が楽しんだ「落とし噺」「怪談」を素材にして、落語という形式をつくっていった。
 アントニオ猪木しかり、ビートルズしかり、秋元康しかり。
 例のあげかたに難があるのは承知のうえだが、天才とよばれる(ていうか自分がそう思う人たち)は、無から有を生み出したわけではない。
 新しい「内容」を生み出せるのは、究極「神」のお仕事だ。
 新しい「形式」を生み出す力を創造というのだ(ことにしておいて)。

コメント (1)
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