水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

8月1日

2012年08月01日 | 日々のあれこれ

 講習2クール目の現代文で小説を3題解く。
 50分で一題読み、解説も終えないといけないので、自分のなかでは「ぐたいぶつは何のためにあるのか」ポイントをしぼっている。
 「この具体物は何の象徴なのか」
 この一点のみを表現している作品もあるし、重要な小道具として扱われているものもある。
 今回は、林京子、中里恒子、高井有一の小説で、それぞれ「抜けた歯」「男下駄」「コロッケ」の象徴性を読み取る。
 ふつうの高校生は、いや大人でも、相当の読書人でも、自分からは絶対に読まずに人生を終える作品で、ふつうに読んだだけでは、おそらく相当に退屈する。
 一学期に「羅生門」で下人の「にきび」は何を表現しているかを勉強した。
 その見方を、さらに身につけさせて、小説のなかの「物」はたんなる物ではなく、なんらかの思いがこめられていることに気づいてもらう。
 すると一見つまらない作品でも、少しは面白くなるよと言ってみたい。

 先日観た「海猿」がストレートに面白かったことは十分に認めたうえで、あえて物足りない点をあげるとすれば、ぜんぶ説明されてしまっていたことだ。
 悲しい人は悲しいと言い、悲しいと泣く。
 うれしい人はうれしいと言い、うれしがる。
 仲間が大事だと考える人は「仲間が大事だ」と言い、そのままに行動する。
 この映画はこんなふうにも見ることができるよ、というような曖昧さがまったくない。
 観客に想像するヒマを与えず、ほんとにわかりやすい。
 あそこに置いてあったあの模型がねとか、あのイスは実はとか、そういう深みがないように思えた。
 ひょっとしたら気づけなかっただけかもしれないが。
 あいまいさが全くない作品は、説明したりない部分がもしあると、そのまま観る側は理解不足になる危険性がうまれる。
 観る側が自分で想像する手間を惜しむようになってしまうから。
 全部説明しようとすることで、かえって説明不足になるというパラドクスがうまれるとも言える。
 テレビドラマをベースに映画化された作品には、こういう傾向があるかもしれない。

 午後。1年生をあつめ、昨日の講評用紙を読み、もういっかい基礎から徹底的にやっていこうと話す。

 上級生はバンドレッスンをしていただき、残り一週間でどうつめていけばいいかを確認した。
 計算上は大丈夫なはずの二曲通してのタイムだが、急に心配になったので先日のプレコンクールの映像を見直してみた。
 まったく大丈夫だ。もっと歌っても大丈夫。それより自分がぜんぜんふれていない。
 たんなるヨーイドン係ではなく、音楽係にもなっていくのが今後の自分の課題とわかった。

コメント
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