「而」は接続のはたらきをする文字である。
AさんがV1して、V2するとき、その間に置かれる。
ただし、単純に順番に行われた二つを動作をつなげる時には、実は用いられない。
a「我 読レ書 就レ寝(我書を読み、寝に就く)」のように。
この文を
b「我 読レ書 而 就レ寝(我書を読みて、寝に就く)」と書くこともある。
ではaとbでは何が異なるのか。文を書いた人の意識がちがうのだ。
「本を読んで寝た」と言いたいだけならaでいい。
「実は本を読んで、それから寝たんだよ」というときにはbのように「而」を置くのだ。
え? どこちがうの、と思った方はいるだろう。たしかに大きな違いはない。「訳しなさい」という問題の答えはaもbも同じになる。a・bの違いをきちんと説明してある参考書は今のところ見たことがない。
それくらい微妙なちがいなんだけど、V1して、「そしてその結果」V2したと意識的に述べるときには「而」をおくのだ。
二つの出来事を意図的に言うときに「ジー」と一呼吸おく。
ただし、いちいち「しかして」と読むのは訓読としての流れがよくない。
なのでV1の方の送り仮名に接続助詞「て」をつけて読むことにした。
昔の人はえらいね。
結果として「而」そのものは読まないので、いわゆる「置字」という漢文特有の扱いになる。
でも、読まないからといって大事でないことにはならない。
「而」がないときは、意識の中ではつながった一つの行為であり、「而」が置かれているときは、二つの行為や出来事を表現していると言っていい。
有名な論語の一節を思い浮かべれば、なるほど「而」だよなという気もする。
学 而 時 習レ之。
(学びて時に之を習ふ…学問をして、そのあとは必ず機会あるごとにそれを復習する)
「我 書レ信 而 送(我信を書して送る…私は手紙を書いて、そして送った)」というときの手紙は、それを送ろうかどうしようか悩んだあげくに送る告白の手紙。
「我 書レ信 送(我信を書き送る)」は、一言の添え書きもない年賀状を送るイメージだ。
「而」の前後に置かれた二つの出来事が、逆接の関係になっている場合もある。
そういうとき、V1に「て」をつけずに「も」を送り仮名とし、関係をより明らかにすることもある。
「我 書レ信 而 不レ送」(我信を書するも、送らず…私は手紙を書いたが、送らなかった)」
ただし、こういう場合「て」のままでもいい。
「手紙を書いて、それで送らなかった」で、日本語は通じるから。
なんとなくつながっていさえすれば通じてしまうのが日本語であり、あいまいな部分が残ったままがかえってよかったりもする。
だから、まとめると「而」は二つの事柄を意図的に表現する際に、その間に置かれる文字ということになる。
1a V 而 V … VしてVす。(而は置字)。
1b V 而 V … VするもVす。(而は置字)。
「而」の前におかれたVに、必ず「て(も)」をつけて読み下すことが大切だ。
一つ目の出来事が一続きの文の場合(けっこう長い場合)、「而」の前でいったん文を切る。
もちろん、原文の古代中国語に句読点はないので、日本の学者が読みやすく切ったのである。
「○○○。而 ~」のとき、「而」は文頭で置き字にするのも不自然だし、こういうときは「而」のニュアンスがより強く感じられることになる。
なので
2a ○○○。而 ~ … しかシテ・しかうシテ
2b ○○○。而 ~ … しかルニ・しかモ
と接続語として読み下す。
あえて文を区切って読んでいる流れなので、bの逆接で読む方が多い。
3 ○○而已。…のみ。
3の読みは特殊な読みとして暗記を求められるが、「而」の本質的意味は同じだ。
「V 而 已」はつまり「Vして已(や)む」なのだ。
Vをして、そしてそれで「已む(終わった)」ということ。
寝坊して朝食を食べられず、休み時間に食堂で何か買って食べようと思っていたのに、授業がのびたり、寝てたり、宿題忘れてよびだされたりでいろいろあって昼休みさえ終わり頃になってしまい、食堂に行ったけど手に入たのはカレーのパック一つだった。
「めしくった?」と問われて答える。
我 食(二)包 咖 喱(一)而 已。
(我包咖喱を食して已む…私はパックのカレーを食べておわった)
これは、気持ちの上では、すっごくおなかすいてたのに、食べたのはパック一つだけだったということだ。
なのでこういうとき「~して已(や)む」は「~するのみ(~しただけだ)」と読むことにした。
昔の人はやはりえらい。
ちなみに「~而已」は音読みすると「ジー」になる。
誰かが当て字に書いちゃったんだろう、一文字で。「~耳(ジー)」と。
だから文末の「~耳」は「~而已」のことで、「~のみ」と読むのだ。