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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「詩を考える―言葉が生まれる現場」(東大2020年)の授業(2)

2020年07月20日 | 学年だよりなど
 評論と随筆の違いは何か。そこに明確な線引きはない。
 筆者の言いたいことが論理的に説明されている(どの程度の完成度かは別にして)のが、評論、主張を露骨に書き表さず、感覚的な共感を求めているのが随筆、エッセイ。
 随筆よりの文章には「つまり」「ではなく」「なぜなら」がない(少ない)。
 随筆には、具体例の一般化、対比、理由説明がない(少ない)。
 だから、自分で対比を考え、自分で一般化、抽象化していく作業が必要になる。


④ 〈 作品をつくること 〉、たとえば詩であると自分でやみくもに仮定してかかっているある多くない分量のことばをつなぎあわせること、また歌や、子どもの絵本のためのことばを書くことと、このような文章を書くことの間には、私にとっては相当な距離がある。
⑤ 〈 ア作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする。 〉自分についての反省は、作品をつくっている段階では、いわば下層に沈澱していて、よかれあしかれ私は自分を濾過して生成してきたある公的なものにかかわっている。私はそこでは自分を私的と感ずることはなくて、むしろ自分を無名とすら考えていることができるのであって、そこに私にとって第一義的な言語世界が立ち現れてくると言ってもいいであろう。
⑥ 見えがかり上、どんなにこのような文章と似ていることばを綴っているとしても、私には作品と文章(適当なことばがないから仮にそう区別しておく)のちがいは、少なくとも私自身の書く意識の上では判然と分かれている。そこからただちにたとえば詩とは何かということの答えにとぶことは私には不可能だが、その意識のうえでの差異が、私に詩のおぼろげな輪郭を他のものを包みこんだ形で少しでもあきらかにしてくれていることは否めない。
⑦ もちろん私が仮に作品(創作と呼んでもいい)と呼ぶ一群の書きものから、詩と呼ぶ書きものを分離するということはまた、別の問題なので、作品中には当然散文も含まれてくるから、作品と文章の対比を詩と散文の対比に置きかえることはできない。強いていえば、虚構と非虚構という切断面で切ることはできるかもしれぬが、そういう切りかたでは余ってしまうものもあるにちがいない。作品においては無名であることが許されると感じる私の感じかたの奥には、詩人とは自己を超えた何ものかに声をかす存在であるという、いわば〈 媒介者 〉としての詩人の姿が影を落としているかもしれないが、そういう考えかたが先行したのではなく、言語を扱う過程で自然に〈 そういう状態 〉になってきたのだということが、私の場合には言える。


Q5「作品をつくること」と対比の関係になる部分を12字で抜き出せ。
A5 このような文章を書くこと

Q6「媒介者」とあるが、何と何とを「媒介」するというのか。
A6 自己を超えた何ものかと、現実世界を生きる人間。

Q7「そういう状態」とはどのような状態か。
A7 作品をつくるうえで、自分は無名の媒介者であるという意識をもっている状態。

 作品をつくること
    ↑
    ↓
 このような文章を書くこと

 作品をつくっているとき
  私自身から自由(←→不自由)
  ある公的なもの ←→ 私的
  無名     (←→有名)
   ↓
 第一義的な言語世界が立ち現れてくる
    ↓
 詩人……自己を超えた何ものかに声をかす存在
     媒介者としての詩人

Q8「作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする」とは、どういうことか。
A8 作品をつくるとは、自己を超えた何ものかの声に形を与える行為であり、
   現実の世界の生きる自分からは解放されているから。
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