~ 江戸時代からやって来たちょんまげ頭の侍、木島安兵衛(錦戸亮)をひょんなことから居候させることになった、ひろ子(ともさかりえ)と友也(鈴木福)の母子。友也のために偶然作ったプリンから、お菓子作りの才能を開花させた安兵衛。彼は人気パティシエとなり、ひろ子や友也とのきずなも深まっていくが……。~
タイムスリップもののおもしろさは、あらくわけて二つある。
一つは、「たら」「れば」の実現。
あの時こうしてい「たら」とかどうなっただろうとか、こうす「れば」よかったとか、そんなふうに考えることは普通よくないとされる。
と頭ではわかっていながら、人はそんな夢想をしてしまうものだ。
そして、できることならタイムパラドックスが生じない範囲で、自分の人生の一部をうまく変えたりできないかなと願ったりする。
実際には起こりえないが、起こりえないとわかっているから、想像するとドキドキしてしまう。
タイムスリップによって或ることがらの真相を知る、なんてのもこっち系に属し、16回定演二部の劇はこの趣向だった。
もう一つは、異文化接触だ。
異なる文化、異なる価値観がぶつかりあったときに生じるおもしろさ。
「ちょんまげぷりん」は、江戸のお侍と、現代を生きるシングルマザーの出会いという設定で、山ほどあるタイムスリップ系作品の中に、また新しいおもしろさをつくりあげていた。
シングルマザーのひろ子とお侍の錦戸くんの会話で、こんなのがあった。
ひろ子が言う。
「今はね、誰だって好きな仕事ができるの。女だから、家庭にいなきゃなんないってことはないの」
それを聞いた錦戸くんが「さもしい世の中じゃ」と嘆く。
二人の価値観はまったく歩み寄りを見せない。
でも、錦戸くんは、ひろ子のマンションの居候させてもらうかわりに、家事いっさいや友也の面倒をみるようになり、ひろ子は会社での自分の仕事を充実させていくことができるようになっていく。
現代文の授業でよく使う話だが、自分のやりたいことをやろう、好きな職業を選ぼう、なんて発想を、ふつうにみんながするようになったのは、ここ数十年にすぎない。
好きな人と結婚しようと発想するのも、同じだ。
ついこの間まで、婚礼の当日になってはじめて結婚相手の顔をみるのが特殊ではないという人生を、日本人は生きてきた。
自分のやりたいことをやるのが人生、好きな人といっしょになるのが結婚という一見当然の考えが、実はここ数十年の歴史しかないものであり、しかもその考え自体ほんとうにいいものなのかどうか、疑問に思い始めている人も増えてきたのが、今の世の中かもしれない。
だから、お侍の錦戸くんに台詞に、ときどきうなづいている自分に気づく。
新宿武蔵野観ほぼ満席の8割方女性のお客さんもそうではなかったか。
マクドで騒いでいる子供を叱りつける錦戸くんを見て、すっきりもする。
だから現代人ももういちど自分の生き方を見直してみようと、お説教くさくはならないのもいい。
たまたま家ではじめたスイーツづくりに才能を見いだしてしまい、親子お菓子作りコンテストで優勝したのち、六本木の有名お菓子店で働けるようになる。
急に忙しくなり、家にいる時間がなくなると、またひろ子が家事に向かわざるを得ず、しばらく続いていた奇妙な三人家族の均衡は壊れ、二人のお互いに対する気持ちがまたきしんでくる。
そんなすれちがいを和解にむかわせる事件が最後におきるのだが、そのあと侍がしみじみと言う。
現代にタイムスリップする前、つまり江戸時代において自分は武士だった。
武士として禄をはんではいたが、実際にはなんの仕事もなかった。
だから、家事をやるのが楽しく、その上菓子作りという仕事につけたことの充実ぶりといったらなかった、と。
つまり、原作者はけっして現在はおかしい過去のあり方がいいと単純に言おうとしているのではないこともわかる。
和解すると別れが生じるのは、物語の基本だけど、かわいそだったなあ。
そのせつなさを、最後にひろ子と友也があるお菓子屋を訪ねる場面で、いっきに明るい気持ちにさせるのも見事。
最近の映画では一番だった。
タイムスリップもののおもしろさは、あらくわけて二つある。
一つは、「たら」「れば」の実現。
あの時こうしてい「たら」とかどうなっただろうとか、こうす「れば」よかったとか、そんなふうに考えることは普通よくないとされる。
と頭ではわかっていながら、人はそんな夢想をしてしまうものだ。
そして、できることならタイムパラドックスが生じない範囲で、自分の人生の一部をうまく変えたりできないかなと願ったりする。
実際には起こりえないが、起こりえないとわかっているから、想像するとドキドキしてしまう。
タイムスリップによって或ることがらの真相を知る、なんてのもこっち系に属し、16回定演二部の劇はこの趣向だった。
もう一つは、異文化接触だ。
異なる文化、異なる価値観がぶつかりあったときに生じるおもしろさ。
「ちょんまげぷりん」は、江戸のお侍と、現代を生きるシングルマザーの出会いという設定で、山ほどあるタイムスリップ系作品の中に、また新しいおもしろさをつくりあげていた。
シングルマザーのひろ子とお侍の錦戸くんの会話で、こんなのがあった。
ひろ子が言う。
「今はね、誰だって好きな仕事ができるの。女だから、家庭にいなきゃなんないってことはないの」
それを聞いた錦戸くんが「さもしい世の中じゃ」と嘆く。
二人の価値観はまったく歩み寄りを見せない。
でも、錦戸くんは、ひろ子のマンションの居候させてもらうかわりに、家事いっさいや友也の面倒をみるようになり、ひろ子は会社での自分の仕事を充実させていくことができるようになっていく。
現代文の授業でよく使う話だが、自分のやりたいことをやろう、好きな職業を選ぼう、なんて発想を、ふつうにみんながするようになったのは、ここ数十年にすぎない。
好きな人と結婚しようと発想するのも、同じだ。
ついこの間まで、婚礼の当日になってはじめて結婚相手の顔をみるのが特殊ではないという人生を、日本人は生きてきた。
自分のやりたいことをやるのが人生、好きな人といっしょになるのが結婚という一見当然の考えが、実はここ数十年の歴史しかないものであり、しかもその考え自体ほんとうにいいものなのかどうか、疑問に思い始めている人も増えてきたのが、今の世の中かもしれない。
だから、お侍の錦戸くんに台詞に、ときどきうなづいている自分に気づく。
新宿武蔵野観ほぼ満席の8割方女性のお客さんもそうではなかったか。
マクドで騒いでいる子供を叱りつける錦戸くんを見て、すっきりもする。
だから現代人ももういちど自分の生き方を見直してみようと、お説教くさくはならないのもいい。
たまたま家ではじめたスイーツづくりに才能を見いだしてしまい、親子お菓子作りコンテストで優勝したのち、六本木の有名お菓子店で働けるようになる。
急に忙しくなり、家にいる時間がなくなると、またひろ子が家事に向かわざるを得ず、しばらく続いていた奇妙な三人家族の均衡は壊れ、二人のお互いに対する気持ちがまたきしんでくる。
そんなすれちがいを和解にむかわせる事件が最後におきるのだが、そのあと侍がしみじみと言う。
現代にタイムスリップする前、つまり江戸時代において自分は武士だった。
武士として禄をはんではいたが、実際にはなんの仕事もなかった。
だから、家事をやるのが楽しく、その上菓子作りという仕事につけたことの充実ぶりといったらなかった、と。
つまり、原作者はけっして現在はおかしい過去のあり方がいいと単純に言おうとしているのではないこともわかる。
和解すると別れが生じるのは、物語の基本だけど、かわいそだったなあ。
そのせつなさを、最後にひろ子と友也があるお菓子屋を訪ねる場面で、いっきに明るい気持ちにさせるのも見事。
最近の映画では一番だった。