墓参り1、宴会2、麻雀1、回転寿司1、おでん1、メガネ新調1などを経て、17日夜帰宅。
18日は午前中に机整理、午後ある生徒の奨学金授与に立ち会う。
某財団法人の奨学金に応募した2年の子が審査の後認められて、ついてはその授与式を行うから、この日13時に、学校長、教頭、学年主任、担任、生徒と保護者は集合するようにようにとのお達しがあったのだ。
座席配置図や、会の進行を細かく記した印刷物も届いていた。
ま、それだけで若干引き(みんな)気味だった。
その財団の方がお見えになる。
シナリオ通りの進行というあまり心すすまない仕事だったが、もちろん気持ちを顔に出すこともなく「では○○さまより、お言葉をいただきます」と笑顔で進行していたら、その方が予想以上に時間をかけて、奨学金の趣旨とか、今後の人生についてなど語っていただいた。
財団の性質などを考えると、教育系のお役所にいられた方か、もしくは元学校の先生であられる方ではないだろうか。
お話の内容はしごく最もで、暑いなかわざわざご来校いただき、本校生徒にお渡しいただけるのだから、まったくもって文句を言う筋合いなどはない。
ただ、わざわざお越しいただいて趣旨を語っていただかなくても、ちゃんと学校生活を送れる生徒だから推薦したのだし、あとはおまかせいただいてもよかったのではとの思いはわいた。
さらに些細なことではあるが、この儀式のために、決められた日程に、仕事をしている保護者の方をふくめこれだけの人間を集合せよという感覚も、純粋に奨学金を与えたいという思いによる活動とは少し異なるのではないかという疑念もいだいたことを告白しておきたい。
できることなら、わざわざおこしただく分の交通費や出張費も奨学金に上乗せしてくれる器量があってもいいのにと思ってしまうのはせせこましいだろうか。
もちろん、奨学金そのものも、それをわざわざもてきていただけることも、善意にもとづくものであることは間違いない。
ただ、われわれも気をつけないといけないのだが、教育系の仕事は「自分たちのやっていることはいいことだ」という前提にたっているので(もちろんそうでないとやってられないのだが)、その思いが強いあまり、はたから観たらちょっとズレてるように見えてしまうこともあると思うのだ。
誤解を恐れずに言えば、教育関係の仕事に携わっている人々の仕事能力は、最高レベルのものではない。
仕事能力の大きな部分を占める事務処理能力で考えた場合、それときわめて高い相関関係を示す受験勉強的偏差値の、最高クラスの人は教育の仕事にはつかない。
なので、善意に基づいた行い、人としてよかれと思ってやっていることでありながら、結果として、たとえば生徒の側からみると「いい迷惑」的行いになってしまうこともあるのは気をつけないといけない。
突然だが、貴志祐介の新作『悪の教典』は、ある私立高校を舞台にした作品だが、主人公のこんな述懐をみると、なるほど貴志さんけっこうわかって書いてるなと思ってしまう。
主人公のハスミンこと蓮実聖司は、アメリカに留学してMBAを取得し、メガバンクに職を得たものの、問題を起こしアメリカにはいられなくなる。帰国して知人の紹介で、私立高校の英語教員の職を得る。
~ 蓮実は、さして気乗りはしなかったが、引き受けた。そして、最初の一コマで、それが天職であることに気づいた。
プレゼン能力に長け、マインド・コントロールの達人でもある蓮実にとって、クラスを意のままに操ることは造作もなく、快感であった。生徒たちを心服させるには、二つの要素で事足りる。楽しいことと、かっこいいことである。どちらも、蓮実には、はなから十二分に備わっていた。 ~
~ 蓮実も、教育の世界に身を投じる決心ができていた。
ここには、ライバルはいない。それが周囲の教員たちを見回したときの感想だった。
彼らは、誰一人として、本物の競争に晒されたこともなければ、本当に恐ろしい相手と向き合った経験もなかった。 ~
きわめて高い仕事能力をもつ蓮実だが、人間としての感情をもてない、他者と共感できない、しかもそれは病的なレベルでそうであるという、おそろしい欠陥ももつ人間だった。
そんな蓮実がアメリカでおこした問題はどんな性質のものだったか。
生徒を手玉にとり、教員集団をいつのまにか手中におさめ、自分の意に沿わないものを文字通り抹殺することに疑問を感じ得ない蓮実が最終的にたどりつく場面とは、どんなに凄惨なものだったか。
現実にはあり得ないと思いながら、蓮実クラスの能力をもち、蓮実クラスに感情をもてない人間にとって、学校など破壊するのはたやすいことかもしれないと思うとぞっとし、一気読みせざるを得ない小説だった。
18日は午前中に机整理、午後ある生徒の奨学金授与に立ち会う。
某財団法人の奨学金に応募した2年の子が審査の後認められて、ついてはその授与式を行うから、この日13時に、学校長、教頭、学年主任、担任、生徒と保護者は集合するようにようにとのお達しがあったのだ。
座席配置図や、会の進行を細かく記した印刷物も届いていた。
ま、それだけで若干引き(みんな)気味だった。
その財団の方がお見えになる。
シナリオ通りの進行というあまり心すすまない仕事だったが、もちろん気持ちを顔に出すこともなく「では○○さまより、お言葉をいただきます」と笑顔で進行していたら、その方が予想以上に時間をかけて、奨学金の趣旨とか、今後の人生についてなど語っていただいた。
財団の性質などを考えると、教育系のお役所にいられた方か、もしくは元学校の先生であられる方ではないだろうか。
お話の内容はしごく最もで、暑いなかわざわざご来校いただき、本校生徒にお渡しいただけるのだから、まったくもって文句を言う筋合いなどはない。
ただ、わざわざお越しいただいて趣旨を語っていただかなくても、ちゃんと学校生活を送れる生徒だから推薦したのだし、あとはおまかせいただいてもよかったのではとの思いはわいた。
さらに些細なことではあるが、この儀式のために、決められた日程に、仕事をしている保護者の方をふくめこれだけの人間を集合せよという感覚も、純粋に奨学金を与えたいという思いによる活動とは少し異なるのではないかという疑念もいだいたことを告白しておきたい。
できることなら、わざわざおこしただく分の交通費や出張費も奨学金に上乗せしてくれる器量があってもいいのにと思ってしまうのはせせこましいだろうか。
もちろん、奨学金そのものも、それをわざわざもてきていただけることも、善意にもとづくものであることは間違いない。
ただ、われわれも気をつけないといけないのだが、教育系の仕事は「自分たちのやっていることはいいことだ」という前提にたっているので(もちろんそうでないとやってられないのだが)、その思いが強いあまり、はたから観たらちょっとズレてるように見えてしまうこともあると思うのだ。
誤解を恐れずに言えば、教育関係の仕事に携わっている人々の仕事能力は、最高レベルのものではない。
仕事能力の大きな部分を占める事務処理能力で考えた場合、それときわめて高い相関関係を示す受験勉強的偏差値の、最高クラスの人は教育の仕事にはつかない。
なので、善意に基づいた行い、人としてよかれと思ってやっていることでありながら、結果として、たとえば生徒の側からみると「いい迷惑」的行いになってしまうこともあるのは気をつけないといけない。
突然だが、貴志祐介の新作『悪の教典』は、ある私立高校を舞台にした作品だが、主人公のこんな述懐をみると、なるほど貴志さんけっこうわかって書いてるなと思ってしまう。
主人公のハスミンこと蓮実聖司は、アメリカに留学してMBAを取得し、メガバンクに職を得たものの、問題を起こしアメリカにはいられなくなる。帰国して知人の紹介で、私立高校の英語教員の職を得る。
~ 蓮実は、さして気乗りはしなかったが、引き受けた。そして、最初の一コマで、それが天職であることに気づいた。
プレゼン能力に長け、マインド・コントロールの達人でもある蓮実にとって、クラスを意のままに操ることは造作もなく、快感であった。生徒たちを心服させるには、二つの要素で事足りる。楽しいことと、かっこいいことである。どちらも、蓮実には、はなから十二分に備わっていた。 ~
~ 蓮実も、教育の世界に身を投じる決心ができていた。
ここには、ライバルはいない。それが周囲の教員たちを見回したときの感想だった。
彼らは、誰一人として、本物の競争に晒されたこともなければ、本当に恐ろしい相手と向き合った経験もなかった。 ~
きわめて高い仕事能力をもつ蓮実だが、人間としての感情をもてない、他者と共感できない、しかもそれは病的なレベルでそうであるという、おそろしい欠陥ももつ人間だった。
そんな蓮実がアメリカでおこした問題はどんな性質のものだったか。
生徒を手玉にとり、教員集団をいつのまにか手中におさめ、自分の意に沿わないものを文字通り抹殺することに疑問を感じ得ない蓮実が最終的にたどりつく場面とは、どんなに凄惨なものだったか。
現実にはあり得ないと思いながら、蓮実クラスの能力をもち、蓮実クラスに感情をもてない人間にとって、学校など破壊するのはたやすいことかもしれないと思うとぞっとし、一気読みせざるを得ない小説だった。