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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

トイレの神様

2010年03月16日 | 日々のあれこれ
 植村花菜の「やさしさに包まれたなら」をFMで耳にしてすぐアマゾンでCDを注文し、通しで聴いてみてその歌力に感激し、絶対ブレークする、よしその前に川東の文化祭によんじゃいましょうと進言して一蹴されてから3年(4年かな)経った。
 ひょっとしたら、この曲でぐんとメジャーになるかもしれない。
 おばあちゃんに育てられた植村さん自身の体験を歌にした作品。

 ~ 小3の頃からなぜだか おばあちゃんと暮らしてた
   実家の隣だったけど  おばあちゃんと暮らしてた
   毎日お手伝いをして  五目並べもした ~

とはじまる。トイレ掃除が苦手な「私」に、おばあちゃんは

 ~ トイレには それはそれはキレイな 女神様がいるんやで
   だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいに 
   べっぴんさんになれるんやで ~

と語る。べっぴんさんになるために「私」はトイレ掃除をがんばりはじめる。
 「私」は、大人になるにつれて、おばあちゃんとぶつかったり、家にいつかなくなったりしはじめる。
 家族といるより彼氏といた方が楽しいのはあたりまえだ。
 おばあちゃんも、きっとそれがあたりまえだと思って見守っていただろう。
 「私」が上京してから2年がたち、おばちゃんとの別れが唄われる。
 ちゃんと育ててもらったのに、ちゃんとありがとうが言えなかったという悔いの残る別れ。
 歌の後半は、つぼにはまる人には涙がちょちょぎれるはず。
 でもけっして、感動の押し売り、無理やり泣かせてやる的な作品ではない。
 「トイレの神様」という幼いころのおばちゃんの教えを大事にし続けている「私」の人生。
 反発したり、家から足が遠のいたり、新しい生活に踏み出したりしても、その教えをいつも胸にいだいている「私」、つまりおばあちゃんと疎遠であったときも、心のどこかでつながっていることが感じられるからだ。
 そして、二人の思い出が「鴨南蛮」「五目並べ」みたいな具体でイメージできること。

 ~ 買い物に出かけた時には 二人で鴨なんばん食べた
   新喜劇録画し損ねたおばあちゃんを
   泣いて責めたりもした ~

 「ちゃんと録画してって、言うたやん!」と泣き叫ぶ孫と、「ごめんな、かんにんしてや」と宥めるおばあちゃんとの様子を思いうかべて、自分の昔と重ねたりなんかすると、もうやばくないですか。
 『四十九日のレシピ』がいいなと思われた方は、ぜひこの曲もきいてみてほしい。

 二部のお芝居も、血や肉がついてきて、ちょっとやばいとこでができそうだ。 
コメント (1)
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コミュニケーション

2010年03月16日 | 日々のあれこれ
 ホルンの先生が、帰りは本川越ではなく上福岡へとおっしゃるので、「この後、次のお仕事ですか?」と尋ねる。
「前に教えた学生さんが、卒業を向かえて、その追い出しコンパにさそってくれたんですよ。ちょっと顔を出してきます。」
「いいですね、若者たちと呑めて。」
「そんなに何回も教えに行ったるわけじゃないのに、時々声をかけてくれるんですよ。」
「えらいですね、今時の学生さんにしては。先生、それって音楽家に一番必要なことじゃないですか。」
「そういうとこがね。いくら上手でも、そういうとこができないと。他人にきいてもらえてなんぼの仕事ですから」
 仕事の出来不出来はもちろんだいじだが、それ以上に他人とコミュニケーションがとれることは、どんな仕事でも同じだろうな。
 楽譜をさらうのも同じ。
 楽譜にpとかfとか書いてあるのに、作曲者がそう演奏してと言っているのに、それをシカトして勝手にmfで吹き続けてはいけないし、まして♭をおとしていたのでは。
 練習とか勉強とか仕事とかいうのは、結局ぜんぶコミュニケーションなのだ。
 そういえば「コミュニケーション」にぴたっとあてはまる日本語がないような気がする。
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