今年の東大の現代文の問題で『ポストプライバシー』という書物がとりあげられていた。
~ 近代人は、「内面が自己をつくる」と考えてきた。しかし現代、情報化されたデータによって自己はつくられる。なので近代になって生まれた「内面のプライバシー」も必要がなくなった。プライバシーの必要があるとすれば、内面ではなく、個人のデータを管理する情報システムの方だ。現代、個人と言われているものは、情報化された人格であり、実体としての「個」ではなくなってしまった。 ~
という主旨の文章である(たぶんね)。
「この私」にこだわったのが近代という時代だ。
しかし今、その「この私」さえ、なくなってしまった(指示語ばっかでわかりにくいですね)。
いま、「自己」はパソコンのスクリーンの上にしかない。
本人は自分の部屋にこもったままでも、たとえばブログでどこそこに行った、何々を考えたと書くことで、ものすごく活動的な「私」をつくることもできる。
それが「ほんとうの自分」だと思いこむことも可能なのではないか。
現代人の自己は、ヴァーチャルな自己として形成されるのだ。
てな、ことでしょうか。
映画「パレード」を観て、なるほど現代の若者を見事に描いているなと思いながら、何かノスタルジックなものまで微妙に感じてしまったのは、ひょっとして、この映画の中のような若者像さえ失われつつあるのではないかと感じたからだ。
2LDKをルームシェアする4人の若者たちは、それぞれになんらかの事情をかかえながらも、お互いにそういうものにはふれずに暮らしている。
学生のころ、サークルの先輩たちに「おまえらの学年は、もっと本音で話し合わないとだめだ」とお説教されたことが、複数回ある。
寮の先輩にも言われたな。
本音を語り合うなんて、無理に決まってます、なぜ必要なんですか、そんなに思ったことを何でもかんでも言い合うなんて人間じゃなくないですか、的な反発心をもった記憶もある。
冷静に今考えると、本音も何も、中身が何もなかっただけのことなのだが。
しかし、当時の反発心がおかしなものだったかというと、そうでもないように思う。
自分の内面は自由であり、内面がどんなであれ、外面に現れているもので社会的評価を受けるのが人間社会であると今も思うから。
それはそうだな。
たとえば会社で、上司に元気よく「おはようございます」と言ったとき、「いまおまえは元気よく声はだしたけど、内面ではおれのことをバカにしたはずだ、クビっ!」ということにはならないだろうから。
このへんは難しいけどね。
われわれもつい「心から反省しなさい」という文言をつかう人種なので。
で、この「内面のプライバシー」というのは、近代の産物なのだ。
「パレード」の登場人物たちは、これを大切にしている。
大切にしながら(するからこそ)、生身の人間として協同生活を送っている。
こんな若者像さえ描けなくなる時代になってきているのかもしれない。
広げた風呂敷のわりにしょぼくなってしまったが、映画自体おもしろいかどうかと言われれば、「人によっては」としか言いようがないです。
でも、役者さんの演技はすばらしい。
今の若い役者さんて、こんなに上手なんだと感動する4人(藤原竜也、香里奈、貫地谷ちゃん、小出恵介くん)+1人(林遣都くん)で、日本の映画界の将来は安泰だと思わされる今日このごろである。
~ 近代人は、「内面が自己をつくる」と考えてきた。しかし現代、情報化されたデータによって自己はつくられる。なので近代になって生まれた「内面のプライバシー」も必要がなくなった。プライバシーの必要があるとすれば、内面ではなく、個人のデータを管理する情報システムの方だ。現代、個人と言われているものは、情報化された人格であり、実体としての「個」ではなくなってしまった。 ~
という主旨の文章である(たぶんね)。
「この私」にこだわったのが近代という時代だ。
しかし今、その「この私」さえ、なくなってしまった(指示語ばっかでわかりにくいですね)。
いま、「自己」はパソコンのスクリーンの上にしかない。
本人は自分の部屋にこもったままでも、たとえばブログでどこそこに行った、何々を考えたと書くことで、ものすごく活動的な「私」をつくることもできる。
それが「ほんとうの自分」だと思いこむことも可能なのではないか。
現代人の自己は、ヴァーチャルな自己として形成されるのだ。
てな、ことでしょうか。
映画「パレード」を観て、なるほど現代の若者を見事に描いているなと思いながら、何かノスタルジックなものまで微妙に感じてしまったのは、ひょっとして、この映画の中のような若者像さえ失われつつあるのではないかと感じたからだ。
2LDKをルームシェアする4人の若者たちは、それぞれになんらかの事情をかかえながらも、お互いにそういうものにはふれずに暮らしている。
学生のころ、サークルの先輩たちに「おまえらの学年は、もっと本音で話し合わないとだめだ」とお説教されたことが、複数回ある。
寮の先輩にも言われたな。
本音を語り合うなんて、無理に決まってます、なぜ必要なんですか、そんなに思ったことを何でもかんでも言い合うなんて人間じゃなくないですか、的な反発心をもった記憶もある。
冷静に今考えると、本音も何も、中身が何もなかっただけのことなのだが。
しかし、当時の反発心がおかしなものだったかというと、そうでもないように思う。
自分の内面は自由であり、内面がどんなであれ、外面に現れているもので社会的評価を受けるのが人間社会であると今も思うから。
それはそうだな。
たとえば会社で、上司に元気よく「おはようございます」と言ったとき、「いまおまえは元気よく声はだしたけど、内面ではおれのことをバカにしたはずだ、クビっ!」ということにはならないだろうから。
このへんは難しいけどね。
われわれもつい「心から反省しなさい」という文言をつかう人種なので。
で、この「内面のプライバシー」というのは、近代の産物なのだ。
「パレード」の登場人物たちは、これを大切にしている。
大切にしながら(するからこそ)、生身の人間として協同生活を送っている。
こんな若者像さえ描けなくなる時代になってきているのかもしれない。
広げた風呂敷のわりにしょぼくなってしまったが、映画自体おもしろいかどうかと言われれば、「人によっては」としか言いようがないです。
でも、役者さんの演技はすばらしい。
今の若い役者さんて、こんなに上手なんだと感動する4人(藤原竜也、香里奈、貫地谷ちゃん、小出恵介くん)+1人(林遣都くん)で、日本の映画界の将来は安泰だと思わされる今日このごろである。