★ 私が考えている今、私はだれであろうか。それに対する答はこの問いの不確定さに左右される。というのは、私は考えるなのか、それとも私は何かを考えるのか、どちらをさすかによるからだ。
★ 私が考えるということは、私が何かを考えることを意味しない。私が考えるということは、考えるという活動そのものを意味する、つまりそれは、動き出し、伸び、私を覚醒させる活動である、そしてまた私の内部に何らかの配置配列をもつと思われるが、はっきりと指定できない場において、木蔦のように展開する活動である。
★ 私は何かを考えずに考えることができるだろうか。もちろん。しかし、私がある対象、ある主題について考えるとき、もし真剣に私がそういうものを考えているなら、私がその主題、その対象であることは何の疑いもない。私がしかじかの概念を考えるとき、私は完全にその概念である。私が木を考えるとき、私は木であり、私が河を考えるとき、私は河であり、私が数を考えるとき、私はどこからどこまで、足の先から頭のてっぺんまで、数である。以上は思考についての反論の余地のない経験である。それがなくては、いかなる発見も、いかなる新しさもない。
★ 手は金槌を握ったときもはや手ではない、それは金槌そのものであり、それはもはや金槌ではなく、透明になって金槌と釘との間を飛び、それは消え、溶けている。私の手はずっと前から書く字の中に逃げこんでしまっている。手と思考は言語のようにそれらの限定作用をしながら蒸発する。
★ 私が直接目的語なしに、限定作用なしに、ただ単に考えるとき、私はだれであろうか。あの目ざめの戦慄、伸びていくあの緑の木蔦、あの踊る炎、あの生きている火があたえるあの大きな喜びを別にすれば、私は誰であろうか。
★ 私が一般的な意味で考える場合、私は何かを考える能力であり、そして私は潜在的である。私は一般的に考える、私は何でも考えることができる。私は考える、ゆえに私は無限定である。私は考える、ゆえに私は不特定の人である。一本の木、一つの河、一個の数、一本の木蔦、一つの火、一個の理性、あるいは君、何だってかまわない。プロテウスだ。
★ 私は考える、ゆえに私は「だれでもない」。私というものは特定の人ではない、それは特異性ではない。それはいかなる際立ったところもなく、それはあらゆる色彩とあらゆるニュアンスを合わせた白色であり、多様な思考に対し半透明で開かれた受容作用であり、したがって可能性である。私は無限定的にだれでもないのである。
★ もし私が考えるなら、私は何物でもなく、何はだれでもない。私は考える、ゆえに私はない。私は考える、ゆえに私は実在しない。私はだれなのか。オールマイティのジョーカー、白いドミノだ。純然たる能力だ。これ以上に抽象的なものはない。私は、私に接近する思考を受け入れる単なる娼婦にすぎない。私は朝に夕に十字路に立ち、天使ヘルメスの像の下で、四方八方に気をくばって思考を待っている。そしておそらく、エートルという動詞がもしジョーカーかあるいは白いドミノであるなら、私が存在するということもまたありうるであろう。
<ミシェル・セール “思考”―『高校生のための批評入門』より引用>