Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“なぜ人は自由になろうとしないのか?”

2013-06-28 12:39:07 | 日記

★ 《 ただ欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外の何ものも存在しないのである。社会的再生産の最も抑制的な、また最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生み出されるものなのだ。あれこれの条件のもとで欲望から派生する組織の中で生み出されるものなのだ。我々は、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を再発見したのはライヒである)に尽きることになる。すなわち、「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」といった問題に。いかにして人は「もっと多くの税金を!パンはもっと減らしていい!」などと叫ぶことになるのか。ライヒが言うように、驚くべきことは、或る人々が盗みをするということではない。また、或る人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、餓えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである。なぜ人々は、幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲することまでしているのか。 》(ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』)

★ フーコーの権力論、それに対するドゥルーズの疑問を分析した今、我々はこの一節をより厳密に理解することができる。政治哲学の問題は、なぜ、そしてどのようにして人々が何かをさせられるのか、ではない。なぜ、そしてどのようにして人々が進んで何かをしようとするのか、である。人々は自ら進んで搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲する。政治哲学は、それを問わねばならない。この地点に到達しない限り、政治哲学は、抑圧するものと抑圧されるもの、支配するものと支配されるものという図式を決して抜け出すことができないだろう。したがって、下から、「低い所」から来る実におぞましい権力なるものをつかむこともできないだろう。服従を求める民衆が他の者にも服従を強いる、というありふれた、しかしいつまで経っても我々の目の前から消えてなくならない、あのおぞましい現実に迫ることはできないだろう。

★ この問いかけは、次のように言い換えてもよい。なぜ人は自由になることができないのか?いや、なぜ人は自由になろうとしないのか?どうすれば自由を求めることができるようになるのか?これこそが、<政治的ドゥルーズ>が発する問いなのだ。ドゥルーズ=ガタリは、たとえばドゥルーズが単独で書いた著作のなかで示していたタイプの実践、「失敗をめざす」ようなタイプの実践を提唱しない。つまり、あらゆる場面に応用可能な抽象的モデルを提唱しない。ドゥルーズ=ガタリは、まさに精神分析家が患者一般ではなく個々の患者に向かうように、一つ一つの具体的な権力装置、それを作動させるダイヤグラム、そして何よりもまず、その前提にある欲望のアレンジメントを分析することを提唱する。そこから、自由に向けての問いが開かれる。その問いは、常に具体的な個々の状況において問われる。

<國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書2013)>