筑摩書房から高校教師だった四人が編集した『高校生のための文章読本』が出たのは1986年のことだったそうだ。
この“高ため”シリーズは『批評入門』と『小説案内』の三部作となり、そのうち『高校生のための批評入門』が2012年にちくま学芸文庫で再刊された。(このシリーズは“有名”なので、とっくに読んでいるひとも多いでしょう)
さらに別メンバー編集による『ちくま評論入門 高校生のための現代思想ベーシック』(2009)、『ちくま評論選 高校生のための現代思想エッセンス』(2007)、『ちくま小説入門 高校生のための近現代文学ベーシック』(2012)も出ており、『ちくま評論選 高校生のための現代思想エッセンス』は昨年“改訂版”も出ている。
ぼくは最近、これをボチボチ読んでいるのである(笑;このブログに引用もしている)
これらの“選集”に選ばれた引用文のうちには、ぼくの馴染みの書き手とそうじゃないひとがいる(当然!)、馴染みのヒトなら“ヘーなんでここ、選んだの?”とか思うし、馴染みじゃないヒトなら(つまりなんとなく敬遠していた人なら)“ああそうなのか”とか思う。
つまり(けっこう)面白いのである。
ぼくには“小説入門”より“評論入門”の方が面白い。
文庫になった『高校生のための批評入門』には、各章の終わりに“手帖”というコラムがあるが、その2“違いにこだわる”から引用する;
★ ひとの話しに耳を傾けていて、「うん、わかる、わかる。だけどボクの考えとはちょっと違うなあ」と感じるような時、君は批評の入口に立っている。その「ちょっとの違い」にこだわって、どこが違うのか、違いはどこからくるのかと問いかけてみよう。
★ 自分とまわりのとの間にあるわずかな違いを見逃さずに問い直してゆくことが批評の第一歩だが、私たちの住む日本の社会は、違いにこだわるよりも、むしろまわりとうまくやってゆくことに、より大きな価値を置く社会のようだ。ひとりひとりが、独自の感性に縁取られた自分の世界を保持しながら、「他者」との快い緊張関係を結んでゆく社会ではない。他者との違いをおおいかくして自己を非個性化し、まわりとの間に波風を立てないことが美徳とされる社会である。わずかな違いをあげつらうことは、世間知らずで大人気ないとされる。つまり私たちの社会には、自分のまわりの「他者」が何であるかをつきとめたり、またそれに対置して自己を浮き彫りにしてゆく批評の基本的なシステムが、まだ充分に確立されていない。
★ ゆたかな批評の世界を手に入れるためには「他者」の“発見”が不可欠だ。ただし、「他者」とは人間に限らない。ものでもあり、規則や制度などでもある。
★ だから、世間知らずといわれようと、大人気ないと説教されようと、若い君は耳をふさいでおくがいい。違いにこだわることは、それをしないでいるより、はるかに自分と世界とを広く、また深く知ることにつながるからだ。
<梅田・清水・服部・松川編『高校生のための批評入門』(ちくま学芸文庫2012)>