★ 世紀が変わった現在、民主主義をめぐる状況はまた変化しています。冷戦が終結して不人気になったのは、イデオロギーと大きな国家組織です。かわりに国家を縮小してできるだけ多くを民間の市場に任せようとする新自由主義が盛んになりました。1980年にサッチャーとレーガンの新自由主義が誕生し、その影響力は2005年の小泉政権の大勝利まで及んでいます。共産主義やファシズムのようなイデオロギーのために、大量の人間が命を落とすのは不条理であって許しがたい、というのは実際そのとおりで、この点で自由主義は他より少なくとも優れていると信じられました。
★ しかし新自由主義は大量殺人の責任から逃れているでしょうか。イラクやアフガニスタンを標的にしたアメリカによる戦争では、多くの人々が落命しています。また国内政治についてみても、貧富の差が拡大し、貧しい人たちにとって人生への希望は失われがちで、自然災害や病気への備えも十分ではなくなってきています。最近非常に高いレベルを示すようになった日本の自殺者数(交通事故よりもはるかに多い)も、関係があるかもしれません。不幸を放っておくことは、不作為の犯罪ではないのか、と考えてみる時期に来ているのではないでしょうか。
★ 民主主義は社会に対して何ができるのでしょうか。ここ何十年かで変化した民主主義の思想について見ておきたいと思います。まず旧来の民主主義の基本的な考え方として、アメリカの大統領で奴隷を解放したリンカーンの、あまりにも有名なゲティスバーグ演説のなかの言葉、「人民の、人民による、人民のための政治」を取り上げてみたいと思います。この言葉を理解するには、まず人民(People)とは何かが明らかでなければなりませんが、問題は今それをはっきりと示すのは難しそうだという点です。リンカーン自身は何より南北に分断されたアメリカの再統合を目指していたのだから、当時の文脈ではアメリカ国民を指していたのだろうと推測されます。しかしそれを現代に移そうとすると、さまざまな問題が生じてきます。
★ まず、国内的に政治社会を構成する人々の多様性に注目すると、単一の人民ということが、今では難しくなっています。アメリカは言うまでもなく移民の国であり、それに加えて先住民やアフリカから奴隷として連れて来られた人々の子孫がおり、多くの相互に不平等なエスニック・グループに分かれています。1960年頃からこれら少数者(マイノリティ)の権利主張が盛んになりました。また女性の社会進出とともに、フェミニズムの影響力も大きくなりました。
★ このような立場からは、人民とか国民とか括りは、政治社会の多数派(アメリカで言えば、白人、男性、中産階級、プロテスタントなど)に少数派を従属させる恐れがあります。少数派の尊重ということは昔から言われていたとはいえ、民主主義の基本はやはり多数派による支配でした。多数が貧しく抑圧されていて、特権層に対して共通の怒りを抱いて団結できるならば、多数派の支配は正義にかなうかもしれません。しかし、今ではむしろ、多数派であることが、マイノリティを抑圧している可能性が高いのです。このように、差異と少数者の側に立つ民主主義は、多数支配という民主主義の常識を大きく揺るがせました。同様のことは日本を含め、現代世界のどこでもあてはまります。
★ 次に、人民あるいは国民の外部に存在する人々についてです。例えば、外国人は排除されるのでしょうか。排除される合理的な理由はないように思われます。ところが、民主主義を構成する人民ないし国民とは、これまで政治的共同体によって囲い込まれ、そのなかで構成員としての政治的な権利義務を有する者たちだと多くは考えられてきました。そうだとすれば、民主主義とは、君主制や独裁制よりはまあ良いかもしれないが、結局閉ざされた政治社会の集団的エゴイズムとどう違うのか、という疑問が出てきてもおかしくはありません。
<森 政稔“民主主義はいまも魅力があるのか―問い直す意味”―『高校生のための東大授業ライブ』(東京大学出版会2007)>
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