Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
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ポスト戦後社会;理想(夢)から虚構へ

2013-06-19 16:08:40 | 日記

★ 世界史的に見るならば、第二次世界大戦後の「戦後」は、「戦争なき時代」の到来を意味したのではなく、「冷戦」という新たな準戦時体制の時代であった。そして、この時代のアジアでは、朝鮮戦争とベトナム戦争という二つの大規模な戦争が起こり、「戦後」などとは到底言えない状態が二十年以上にわたって続いた。1950年代、60年代は、アジア規模で見るならば、「ポスト戦後」どころか「戦後」ですらなく、いまだ「戦時」だったのである。

★ そして戦後日本は、これらの戦争、とりわけ朝鮮戦争から特需を得て、その後の経済成長の基盤をかたちづくっていった。冷戦体制のなかで、日本はアジアの自由主義経済の牽引車に位置づけられ、劇的な経済発展を遂げていく。しかし、「復興」から「経済成長」への流れが連続していた日本の「戦後」が、50年代から70年代にまで及ぶアジア規模での「戦後=準戦時」やそれを支える開発独裁体制と表裏の関係をなしていたことを忘れてはならない。

★ しかも、60年代の高度経済成長は、近年の多くの研究が示すように、戦時期を通じて強化されてきた総力戦体制の最終局面でもあった。高度成長を通じて日本人は、敗戦で打ち砕かれたナショナル・アイデンティティを、技術や経済、新しい民主主義といった新種のシンボルに仮託しながら再構築し、「戦争」の忌まわしき記憶を歴史の彼岸に押しやってきた。しかし、そもそもの「戦時」の体制が、紛れもなく「戦後」の一部ですらあったのだ。敗戦と占領の数年間からそれに続く復興と高度成長、社会の再構築のプロセスを、つまり「戦後」と名指されるプロセスの全体を、むしろ「戦時」からの連続性として把握することが必要である。

★ 社会的なリアリティの変容という面でいうならば、「戦後」社会から「ポスト戦後」社会への転換は、見田宗介が「理想」および「夢」の時代と名づけた段階から、「虚構」の時代と名づけた段階への転換に対応している。見田によれば、1945年から60年頃までのプレ高度成長の時代のリアリティ感覚は、「理想」(社会主義であれ、アメリカ流の物質的な豊かさであれ)を現実化することに向かっており、その後も70年代初めまで、実際に実現した物質的な豊かさに違和感を覚えながらも、若者たちは現実の彼方にある「夢」を追い求め続けた。しかし、80年代以降の日本社会のリアリティ感覚は、もはやそうした「現実」とその彼方にあるべき何ものかとの緊張関係が失われた「虚構」の地平で営まれるようになる。

★ 都市空間の面で「夢」の時代を象徴したのが、1958年に完成した東京タワーであったとするならば、「虚構」の時代を象徴するのは、間違いなく83年に開園した東京ディズニーランドである。

★ そして東京タワーに集団就職で上京したての頃に上り、眼下のプリンスホテルの芝生やプールのまばゆさを脳裏に焼き付けていた少年永山則夫は、68年秋、そのプールサイドに侵入したのをガードマンに見つかったところから連続ピストル射殺事件を起こしていく。永山の犯罪は、「夢」の時代の陰画、大衆的な「夢」の実現から排除された者の「夢」破れての軌跡の結末であった。これに対し、この事件の二十年後に起きた宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件では、殺人そのものが現実的な回路が失われた「虚構」の感覚のなかで実行されている。

★ このようなリアリティの存立面の対照は、若者たちによって引き起こされていった社会的事件にも認めることができる。「夢」の時代が内包する自己否定の契機を極限まで推し進めたのが1971年から72年にかけての連合赤軍事件であったなら、90年代、「虚構」の時代のリアリティ感覚を極限まで推し進めていったところで生じたのは、オウム真理教事件であった。

<吉見俊哉『ポスト戦後社会』(岩波新書2009)>