Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
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哲学は何の役に立つのか?

2013-06-25 07:41:33 | 日記

★ 《「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。》(ドゥルーズ“ルクレティウスとシミュラークル”―『意味の論理学』)

★ ルクレティウスは「できる限り苦痛を避けるためには、ごくわずかなもので事足りる・・・・・・。しかし、魂の動揺を克服するためには、より深い技法が必要となる」と述べている。この哲学詩人は、魂の動揺をもたらす神話から人々を解放するにはどうすればよいかを考えていた。ドゥルーズによれば、そのために必要なのが「自然」の観念である。自然とはここで、単に現象の総体を意味するのではない。それは区別を教える観念である。つまり、人間の生のうちで、何が自然に帰し、何が自然に帰さないのか、それを自然の観念は教える。

★ 自然を定義することはとても難しいが、ドゥルーズは次のように説明している。自然は「慣習」と対立するものではない。なぜなら、自然な慣習が存在するから。自然は「約束事」に対立するものでもない。どれほど権利が約束事に依存しているように思われようとも、我々は自然権というものを考えられるから。自然は「発明」と対立するものでもない。発明とは自然そのものの発見であるから。しかし、自然は「神話」とは対立する。「人間の不幸は、人間の慣習や約束事や発明や産業が原因なのではなく、それらの中に入り混じる神話と、神話によって人間の感情と仕事の中にもたらされる偽の無限との結果なのである」(『意味の論理学』)

★ したがって、自由な人間の像を描くためには、自然の観念が必要である。そして、そのような自然の観念を発見できるのは哲学を措いて他にない、というのがドゥルーズの確信するところである。「最初の哲学者は自然主義者である。彼は神々について説く代わりに、自然について説く」(『意味の論理学』)

<國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』研究ノートⅠ(岩波現代全書2013)>