Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

いつか、いるかホテルで

2013-06-22 08:09:15 | 日記

★ 背筋をまっすぐにのばして目を閉じると、風のにおいがした。まるで果実のようなふくらみを持った風だった。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子のつぶだちがあった。果肉が空中で砕けると、種子はやわらかな散弾となって、僕の腕にのめりこんだ。そしてそのあとに微かな痛みが残った。
<村上春樹:“めくらやなぎと眠る女”>


★ 僕は彼女の手をとり、ちょうど手相を見る時のように、手のひらを僕の方に向けた。彼女は手からすっかり力を抜いていた。長い指はごく自然に心もち内側に曲げられていた。彼女の手に手をかさねていると、僕は自分が16か17だった頃のことを思いだした。それから僕は身をかがめて、彼女の手のひらにほんの少しだけ鼻先をつけた。ホテルの備えつけの石鹸の匂いがした。僕はしばらく彼女の手の重みをたしかめてから、そっとそれをワンピースの膝の上に戻した。
「どうだった?」彼女が尋ねた。
「石鹸の匂いだけです」と僕は言った。
<村上春樹:“土の中の彼女の小さな犬”>


★ 僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまわりの納屋はいまだにひとつも焼け落ちてはいない。どこかで納屋が焼けたという話もきかない。また十二月が来て、冬の鳥が頭上をよぎっていく。そして僕は年をとりつづけていく。
夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。
<村上春樹:“納屋を焼く”>


★ 港で新聞を買ったら、三匹の猫に食べられてしまった老婦人の話が載っていた。アテネ近郊の小さな町での出来事である。死んだ婦人は七十歳で、ひとり暮らしだった。アパートの一室で、三匹の猫と一緒にひっそりと暮らしていたのだ。でもある日突然彼女は心臓発作か何かで倒れて、ソファーに伏せたまま息を引き取ってしまった。
★ 僕はその記事を、カフェのテーブル越しにイズミに読んで聞かせた。晴れた日には港まで歩き、アテネで発行されている英語の新聞を買って、税関事務所の隣のカフェでコーヒーを注文し、面白そうな記事があったら僕がその大筋を翻訳して読み上げるのが、この島における我々のささやかな日課になっていたのだ。
<村上春樹:“人喰い猫”>


★ よくいるかホテルの夢を見る。
夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。夢は明らかにそういう継続性を提示している。夢の中ではいるかホテルの形は歪められている。とても細長いのだ。あまりに細長いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる。その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。そして僕はそこに含まれている。そこでは誰かが涙を流している。僕の為に涙を流しているのだ。
★ それから彼は微笑んだ。とても静かな微笑みだった。
「僕がキキを殺したのか?」と彼はゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
「冗談だよ」と僕も微笑んで言った。「ただなんとなくそう言ってみただけだよ。ちょっと言ってみたかったんだ」
<村上春樹:『ダンス・ダンス・ダンス』>







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