Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

微塵に砕かれて;20世紀の目撃者

2013-06-06 11:55:10 | 日記

★ 建物の外へ出ると銃殺のときにたたせた煉瓦壁や絞首台などを見せられた。親衛隊員の部屋は机と椅子と書類タンスのほかはなにもなかった。むきだしの壁にハッタとにらんでほえているヒトラーの小さな写真がかかり、スローガンが一枚、
「国家は一つ、民族は一つ、総統は一人。」
と書いてあった。

★ 銃殺の煉瓦壁のすぐむこうには高圧電流の鉄柵ごしに公会堂風の建物が見えた。それはこの収容所に勤務していた親衛隊員や国防軍の士官、下士、兵士たちの娯楽室で、週末などにワーグナーやベートーヴェンやモーツァルトなどを演奏し、またオペラまがいのものを上演したりして、地獄の釜のふちで芸術に感動していたのである。

★ アウシュヴィッツを見終わってから自動車で五分ほどのビルケナウへいった。この収容所に例のガス室と火葬室があったのだが、ナチスが1944年に撤退するとき爆破してしまったので、いまは爆破当時の火薬の走った方向を示すままにコンクリートの巨大な破片が草むらに散乱しているだけである。

★ 「・・・・・・おいでなさい。」
案内のスラブ顔のおばさんが池の岸辺におりてゆくのでついてゆくと、彼女は水のなかをだまって指さした。水はにごって黄いろく、底は見透かすすべもないが、日光の射している部分は水底がいちめんに貝ガラをちりばめたように真っ白になり、それが冬陽のなかでキラキラ輝いていた。いうまでもなかった。その白いものはすべて人間の骨の破片であった。ほかの焼却穴はすべて埋められ、あたりは草むらとなって、何食わぬ顔で日光をうけていたが、その草むらの土を靴さきでほじると、たちまち骨の破片がぞくぞくとあらわれてきた。

★ おばさんがひくい声で話しているのを耳にしながら、私は骨の原にたたずんだまま、言葉を失ってしまった。一度微塵に砕かれてみたいと思っていた予感は冬空のしたで完全にみたされた。すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのようであった。

<開高 健“「夜と霧」の爪跡を行く”―『高校生のための文章読本』(筑摩書房1986)より引用>







“不健康のままで生きさせてよ”

2013-06-06 09:38:53 | 日記

★ そのころに比べると、このごろは社会的迫害はないはずなのだが、「不健康な少年」として生きにくくなっているのではないだろうか。ひょっとすると、戦争中の「不健康な少年」が、少数派の特権として、差別されながらも認められていたのが、いまでは多数になって「社会化」しているのかもしれない。あるいは、「差別」はあってはいけないので、みんな「健康」であるべきなのだろうか。なんだかぼくには、「障害を持った弱者」が問題にされるとともに、「健康」であることへの強迫が強まっているような気さえする。

★ ぼくには、人間の身体のあり方とか、生き方とかについては、できるだけ幅がひろいほうが、よいような気がする。人類全体の生存としても安全だろうし、人間文化としてもゆたかだろう。「標準」的な規範に単一化するのは、危険なことじゃないだろうか。

★ たしかにぼくの子どものころだって、「健康な子ども」のイメージはあったらしく、ぼくのように、遠足の弁当をほとんど残したり、夜は寝つきがひどく悪かったりするのは、まさに「弱い子」のイメージにぴったりだった。しかし、そうした「弱い子」のイメージというのは、「不健康な子ども」のあり方のほうが、存在を主張できたこととも言える。

★ たぶん大人の世界のほうも、幅が狭くなっているのだろう。「健康」を求めることが、ほとんどビョーキのように、はびこってきている。高齢化がすすめばなおさら、「健康」が気にされる、というのも奇妙な現象に思える。

★ ほんとのところ、「健康」という概念が、ぼくにはあまり理解できていない。やせすぎず、ふとりすぎずとか、血圧は高からず、低からずとか、からだ中のあらゆる機能が、すべてにわたって「正常」であるというのが、ひどく奇妙な気がするのだ。どちらかの方向に逸脱しても、その形で生きていて、なぜ悪いのだろう。

★ それに、「正常」というものが、「異常」を持たぬことでしか、定義できないような気がする。これが、自分にはなにかの「異常」があるのではないかと、つねに気にかけずにおれない、健康強迫症の構造ではないか。

★ この構造は、みごとに「いじめの構造」と相同的である。集団のなかで、みんなが「正常」であらねばならぬ。それは、「異常」を探して、「異常」を排除することで、達成される。

★ 実際に病気をすると、本人は苦しかったり、まわりは経済的にたいへんだったりするのだが、小説のなかでは、病人のいる風景といったものが、いくらか好ましくえがかれている。このことは、だれもが「健康」であるばかりでなく、病人のいる風景のほうが、人間のよいあり方であることを意味しないだろうか。だれもが病人にならないようにすることより、病人であっても、その風景のなかで、あまり苦しまずに生きられるというのが、人間の風景と思うのだ。

★ たしかに、世間の人がみな「不健康」だと、この社会がまわらないかもしれない。社会を動かしているのが、「健康」な人たちだというのも、ある程度は正しいかもしれない。しかしながら、この社会というものが、「不健康」をも包みこむことで、よく生きているのも事実である。社会が「健康」なひとばかりになったら、それは社会がやせていることでもある。

★ だからぼくは、「子どもは元気に、健康で」などと、強制すべきではないと思う。「不健康」なら、それなりに生きていけばよい。
そして、学校のなかでも、あるいは町かどでも、いくらか不健康な子どもも見うけられる風景のほうを、好ましく思うのだ。

<森 毅“不健康のままで生きさせてよ”―『高校生のための批評入門』(ちくま学芸文庫2012)>