Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ひとりひとりの死

2013-06-02 13:02:34 | 日記

★ 《百人の死は悲劇だが 百万人の死は統計だ》(アイヒマン)

★ ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。

★ 一人の日本人と一人のルーマニア人、この二つの死体の記憶をもって、私は、入ソ後の最悪の一年を生きのびた。私が生きのびたのは、おそらく偶然によってであったろう。生きるべくして生きのびたと、私は思わない。だが偶然であればこそ、一個の死体が確認されなければならず、一人の死者の名が記憶されなければならないのである。

★ その後、私はハバロフスクへ移され、生命力の緩慢な恢復の時期に、かつて見たルーマニア人の死体を悪夢のように想い出すことがあった。人間は決してあのように死んではならないという実感は、容易に、人間は死んではならないのだいう断定へと拡張された。それは今も変わらない。人間は死んではならない。死は、人間の側からは、あくまでも理不尽なものであり、ありうべからざるものである。絶対に起こってはならないものである。そういう認識は、死を一般の承認の場から、単独な一個の死体、一人の具体的な死者の名へ一挙に引きもどすときに、はじめて成立するのであり、そのような認識が成立しない場所では、死についての、同時に生についてのどのような発言も成立しない。死がありうべからざる、理不尽なことであればこそ、どのような大量の殺戮のなかからでも、一人の例外的な死者を掘り起こさなければならないのである。大量殺戮を量の恐怖としてのみ理解すなら、問題のもっとも切実な視点は即座に脱落するだろう。

★ 死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側――私たちが私たちであるかぎり、私たちは常に生の側にいる――からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。

<石原吉郎『望郷と海』―『高校生のための現代思想エッセンス』より引用>

* 石原吉郎(1915-77)詩人。1939年に応召。敗戦後ソ連に抑留され、シベリアで強制収容所生活を送った。