Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

昼と夜の顔

2013-06-24 08:11:37 | 日記

★ それらの幻覚的な言説では、「蘇生」の物語が、家や恋愛の共同性を模擬することで「実感」されるものとして、つまり健全な道義や標準的な規範に漂着しようとする欲望の軌跡として描かれている。おそらく言説化の段階で実際の行為が恣意的なかたちで解釈されているといえよう。それらの言説にダブルフェイスの私娼たちの振舞いを正当化するという政治的な文脈が挿入されているからである。しかし彼女たちの言葉のある部分は、風俗で模擬的に生きられる共同性の経験が一種の錯覚であることをそれとなく示している。そしてそれが錯覚であってもいいのは、その錯覚のリアリティに勝るような幸福な知覚が現実にはないことを、彼女たち自身がよく知っているからである。

★ そこには蘇生どころか、どんな離脱や転移の可能性もない。堕落と蘇生の幻覚的な循環のゲーム、この終わりのない退屈な循環の回路は、それ自身外部を持たない狡猾な消費の文化の同一性のなかに閉じこめられている。彼女らが生きている都市はそのような消費の文化のトポスとして増殖してきたのである。

★ 問題はこのゲームのなかでひっそりと、だが致命的なカタストロフィが生じていることである。退屈な循環として描かれる生の同一性はそのまま<死>の形式に連なっているからである。生の往復運動に見えるものは、そのじつ停滞であり、静止状態だからである。「やるせなさ」からの見かけの離脱、見かけの堕落、見かけの蘇生といった運動の反復は、振り子状態の<死>を意味している。渋谷事件の被害者となった女性は、昼間の仕事では平均をはるかに超える年収を取り、夜の街娼としては孤独な「私」を演じつつ、「イツ 死ンダッテ 構ワナイ」と話していたという。その言葉は、昼と夜のあいだの往復運動に見えるものが、実際には<死>の変形された状態と何ら変わらないことを暗示している。

★ だが、この生の廃墟は決して一人の女性の運命ではなく、さまざまに差分されたかたちで――それゆえいっそうあいまいな顔立ちで――無数の人びとを待ち受けている。それは<死>であるような生である。だが生を閉塞させ、無効にしているのは、生を肯定し、解放し、確かなものとして享受しようとする切実な努力そのものだとすれば、この<死>以上に皮肉なものはないだろう。

<内田隆三『国土論』(筑摩書房2002)>