Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

サドは退屈である

2010-08-05 11:20:03 | 日記

“サドは退屈である”といっても、“サド侯爵”がどういう人であり、どういう本を書いたか知らないひとには通じない。
“サディズム”の語源になったひとである。

ぼくはエキセントリックなものや、“過激なもの”や、“普通でないもの”が好きなのでは決してない。

“きちがいじみたもの”が好きなのではない。
だからサド、ニーチェ、バタイユ、アルトーというような人びとを“過剰に評価する”人々に組しない。

たとえば、1950年代のフランスに、“ヌーボロマン”とか“アンチロマン”とか呼ばれた一群の作家が現れたが、そのなかでぼくが好きなのは、“いちばん穏健な”ビュトールである。
ソレルスなどという“女たらし”は好きになれない(笑)

デュラスは<女>であり(爆)、ちょっと離れた位置にいた(と思う)
ル・クレジオはもっと後の世代であり、彼が“アンチロマン”についてどう考えていたか知らない(たぶん関心がなかったのだ;笑)
つまりル・クレジオは、“アンチロマン”からも隔絶していた。


加賀野井秀一『メルロ=ポンティ 触発する思想』に以下のような文章があった;

★ メルロ=ポンティの生涯には、常軌を外れた「逸話」はない。いや、あろうとなかろうと、それ自体において意味はない。そうでなければ、なぜ、あれほど退屈な日々をおくったカントなんぞが、あれほどにも根本的な思索に達することができたのか。あるいはまた、なぜ、あれほど波瀾万丈の人生をおくったサド侯爵が、たかだかあの程度の月並みな思索にとどまっていたのか。その理由さえわからない。


上記の文章は加賀野井氏の文章だが、このカントとサド侯爵の対比は、メルロ=ポンティ自身のものであり、上記引用個所の直後にメルロ=ポンティ“エロティシズムについて”からの引用がある。

そこでこの“エロティシズムについて”を読んで見た(『メルロ=ポンティ・コレクション4 間接言語と沈黙の声』;みすず書房2002)

翻訳で4ページしかない短い文章。
ぜひ“原文”を参照してほしい(“引用”は疲れた;笑)


ちょっと“さわり”を引用しようか(笑);

★ エロティシズムは、知的勇気および自由の一形式であろうか?

★ けれども(『危険な関係』の色魔)ヴァルモンはどうなったろう?セシルの無垢がなかったら、法院長夫人の貞節がなかったら。彼とても手の出しようがなかったろう。

★ 悪しき感情は良き感情がなかったらどうなるのだろう?冒涜の快楽は偏見と無垢を前提としている。

★ (シュルレアリストたちの)巫女の言葉は摩滅するのだ。長持ちのする言葉はわれわれの喉のなかでそっくり準備されているわけではなく、生きそして語ろうとする試みを通じて整えられていくものなのだ。

★ われわれが知っているサディストたちはお人よしであることが多い。サドの手紙には、世間の評判のまえにおどおどして愚痴をこぼす彼の姿をしのばせるものがある。ラクロもサドもフランス革命のあいだに魔王(サタン)の役を演じはしなかった。

★ われわれの知っている大色情狂(エロチック)はかならずペンを手にしている。つまり、エロティシズムという宗教は文学的な事象なのかもしれない。

★ エロチックではないが、もっと率直で勇敢な作家は、彼本来の任務をすこしも回避しない。その任務とは、たったひとり共犯なしで、徴(シーニュ)の生を変えることである。

★ しかも、歴史と対決する人がこれまで一度も情熱と対決したことがなかったり、放縦なふるまいをする人がありきたりの考え方をしたり、一見世間並みに暮らしている人の思想が万物を根こそぎにしたりするものなのだ。
(以上引用)


こういう文章を読むと、ぼくには日本でもサドの翻訳家だった“黒眼鏡”のひとの肖像が浮かぶのである。
ぼくは彼も、サドの本(たくさん読んだのではないが)も嫌いだった。
というより、“サド・ファン”が嫌いである。


《一見世間並みに暮らしている人の思想が万物を根こそぎにしたりするものなのだ》


そうかどうかぼくは知らないが、<ラディカルな生き方>というものも、誤解されている。

ぼくは中上健次が“過激だから”好きなのではないし、大江健三郎が“温厚になったから”好きなのでもない。

また村上春樹が、“一見世間並みに暮らしている”とは思わない(笑)


ただこれらの<名>によって表出された“文章”(しかもその“変遷”を)支持する;

メルロ=ポンティ、デュラス、ビュトール、ル・クレジオ、大江健三郎、中上健次。


もちろん検討中の人びとがいる;

ベンヤミン、アーレント、フーコー、ドゥルーズ、サイード、柄谷行人、宇野邦一、立岩真也、“現代世界文学”……である。

そして<思想史>と<ドキュメント(ノン・フィクション)>がある。



《エロチックではないが、もっと率直で勇敢な作家は、彼本来の任務をすこしも回避しない。その任務とは、たったひとり共犯なしで、徴(シーニュ)の生を変えることである。》

という文章における<徴(シーニュ)>という言葉=概念は、わかりやすくいえば、<言葉>のことであると言っていいと思う。






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