タイトルに掲げた<英語で見る夢>の話題の“前に”、下記ブログに関連した話題が天声人語にあるので引用する、どうも天声人語や読売編集手帳は、“ぼくのブログ”とシンクロしているよーであり(笑)ぼくが無視しようと思っているのに、(ぼくを)放っておいてくれない Left alone ! ;
▼ いっそのこと、人と動物、人と自然といった対立軸を捨ててはどうだろう。私たちは「ジグソーパズル地球」の遊び手ではなく、大きめの一片とわきまえたい。おごらない共生の視点から、人がこの星に招いた災いの出口が見えてくる。(今日天声人語)
《人と動物、人と自然といった対立軸を捨ててはどうだろう》という提言は、読者に“動物化せよ”と言っているのだ。
すなわちここにおいても、日本の<伝統的>、“自然=主義”という、おそるべき<常識>が繰り返されているだけだ。
いったい《おごらない共生の視点》というのは、どのような<視点>なのか、書いてみろ。
この書き手は、《おごらない共生の視点》を持っているのか。
まさに“ひとに”(読者に)そんなことを言う“前に”、みずからを省みるべきではないのか。
たとえば、“朝日新聞社”の存立にかかわる“環境破壊”を、である。
朝日新聞社が、《この星に招いた災いの出口》をこそ“考察すべき”である。
さて次ぎ;
コピーライターの吉竹純さんに、駅前の風景を詠んだ歌がある。〈英会話ローン牛丼ハンバーガーここはどこかのすべての駅前〉(河出書房新社、歌集『過去未来』より)◆個性なき景観を言い表す「どこかのすべての…」には多くの人がうなずくだろう。この4業種、言われてみればどこにでもある。ということは、顧客の獲得競争もそれだけ激しいわけで、名の知られた英会話学校も安閑としていられない時代である(略)◆―あたしったら近ごろ英語で夢を見るの…とは、10年以上も前にジオスがテレビで流したCMソングである。受講生が英語でうなされる悪い夢を見ることのないように、何よりも誠実な対応が欠かせない。(2010年4月22日01時19分 読売編集手帳)
この文章を読んで、ぼくが“反応”するのは、“英語で見る夢”自体ではなく(ぼくは英語で夢を見たことはないから)、《ここはどこかのすべての駅前》という言葉である。
前にも書いたが近年、ぼくは現在の仕事で、東京のいろんな<駅>に行く機会が多い。
生まれてはじめて降りる駅も多い。
にもかかわらず、どの駅も、その駅前の光景も、駅からのストリートも、《ここはどこかのすべての駅前》である。
前に来たような既視感におそわれ、目的の場所へのルートを“前に来た場所”と勘違いする。
それほど、“どこも同じ”である。
それは、そこにある“店舗”に限らない。
なによりも、“そこを歩いている人”が同じなのである(笑)
この<風景>の均一化・画一化をもたらしたのも、“経済的要因(カネ)”ではあろう。
しかしぼくはそこに、<テレビ>を感じる。
この数十年、この列島の隅々まで、“風景の均一化・画一化”をもたらしたのは、<テレビ>である。
何度も言っているように、このネット=WEBに“うつっているもの”(ブログだろとツイッターだろうと検索情報だろうと)、すべて<テレビ>にすぎない。
日本人の<脳>が、<テレビ>である。
この国における“戦後60数年の成果”というのは、“日本国民の脳”を完全に<テレビ>にしたことである。
すなわち、これこそ、<洗脳>である。
英語で夢を見なくても、<テレビ>と同じ夢を見ている。
ぼくはDoblogのときから、変わらぬ“スローガン”を掲げる;
テレビを消して、本を読もう!
しかし、最近思うのは、“読んでもしょうがない本ばかり読むひとがいる”ということである。
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